歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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始祖姚弋仲(ようよくちゅう)~羌族の仲良し姚氏~

高い結束力を誇る羌族姚氏。

これが羌族姚氏の強みである。

 

歴史上の羌族姚氏は

下記である。

 

姚弋仲(ようよくちゅう)

姚襄(ようじょう)

姚萇(ようちょう)

姚興(ようこう)

姚泓(ようおう)

の五代である。

 

姚泓は姚興を継いで一年で東晋の劉裕に滅ぼされたので、

事実上、羌族姚氏の歴史は、四代で綴られる。

 

始祖は姚弋仲である。

 

●羌族姚氏の始祖姚弋仲

 

羌族をまとめ上げ、

後趙石虎政権の重鎮となった姚弋仲。

 

彼、姚弋仲が羌族姚氏の始祖である。

姚弋仲は石虎の前趙討伐の際に羌族姚氏を率いて後趙石虎に仕える。

 

 姚弋仲が世に出るまでは下記を参照してほしい。

www.rekishinoshinzui.com

 

 

最晩年の身内に対する暴虐な振舞で知られる石虎。

 

しかし、姚弋仲は石虎に歯に衣着せぬ発言をする人物で、

他人に媚びることがなかった。

  

このようなことをする姚弋仲のことを石虎は嫌いそうなものだが、

姚弋仲のことを石虎は深く信頼していた。

 

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ある側面では暴君として恐れられていた石虎だが、

石勒後の後趙を死没するまでまとめた手腕はやはり評価に値する。

 

石虎自身も姚弋仲のように直言で献言をする人物を評価するところに、

石虎の非凡さを感じさせる。

 

 

●後趙石氏の重鎮としての姚弋仲

 

一方で、

姚弋仲は身内にも厳しかった。

 

石虎の死後、

病に倒れた姚弋仲に代わって、

冉閔討伐を子の姚襄に任せるも、

姚襄は冉閔に敗れる。

 

姚弋仲が冉閔討伐に

後継者姚襄を差し向けた理由については下記を参照してほしい。

www.rekishinoshinzui.com

 

 

 

●姚弋仲が後継者姚襄を鞭打ちした理由は。

 

姚弋仲は烈火のごとく怒り、

姚襄を鞭打ちの刑にする。

 

冉閔は戦上手であり、

石勒の養孫として石勒ファミリーの一員であったことも加わって、

敗戦するのもやむなしだが、

姚弋仲はそれさえも許さなかった。

 

姚襄は姚弋仲の死後、後を継ぐのだが、

その後の振舞を見ていると、かなり優秀な指導者である。

 

かつ、姚襄は姚弋仲が病に伏せっていて、

その代わりに軍を率いて冉閔と戦った。

 

この話には理由がある。

 

 

これは姚弋仲が後継者姚襄を守ろうとしたためである。

 

下記に背景を述べたい。

 

冉閔は戦上手で、姚襄と互角と見てもいいだろう。

しかしこれに加えて冉閔は、魏という王朝を創っていた。

国家を背景に軍を動かす冉閔と、羌族だけを引き連れる姚襄。

 

この時点で、羌族姚氏側が少々厳しいことがわかる。

たとえ冉閔が後趙を全て掌握していなかったとしても、

天王は天王であり、天王の冉閔から見たら、羌族姚氏は反乱軍だ。

 

姚弋仲、姚襄は

劣勢なのに戦いを挑んだことが分かる。

 

そして、これは姚弋仲の判断である。

後趙の重臣として石虎を支えた姚弋仲は、

敢えて戦う必要のない戦いに、個人的な思いから挑んだ。

姚弋仲は後趙の重鎮として、後趙を崩壊させた冉閔を

許せなかったのだ。

姚弋仲は後趙と石虎に義理立てしたのである。

しかし、病のため姚弋仲自身は戦いに臨めなかったので、後継者姚襄に任せた。

 

姚襄が冉閔に負けた後、本来の中華を統べるのは東晋なので東晋に投降しろと

姚弋仲が姚襄に遺言したことからも理屈が分かる。

 

姚弋仲は石虎ならよいが、

それ以外なら東晋が本来の統治者であるという考え方の持ち主で、

自身を含めた中華外の異民族が、

この中華において異分子だという認識を持っていたわけである。

姚弋仲が実は漢化していることもこの経緯からわかる。

 

姚弋仲は決して自身の営利のためではなく、

自己の主義、主張で戦いに臨んだ。

 

それが必要だったのである。

 

しかし、姚弋仲の晩年に、後継者と目されている姚襄の敗戦は痛い。

 

時代は下るが、

後燕の慕容宝は同じような経緯で国をまとめ切れなかった。

後燕の慕容宝が参合陂の戦いで敗れ、その直後に慕容垂が死ぬ。

慕容宝は慕容垂の後を継いで後燕皇帝になるも、

参合陂の戦いでの敗戦が尾を引いて、国をまとめきれず、分裂。

そのまま後燕は滅びてしまったのである。

 

しかし羌族姚氏はそうはならなかった。

羌族姚氏をまとめる手段、それが鞭打ちだったのである。

 

●姚弋仲のリーダーシップ

 

姚弋仲は姚襄を鞭打った。

 

姚弋仲はこのあと病が癒えることなく死ぬので、

つまり病を押して鞭を打ったのである。

 

姚弋仲は、勝てないかもしれない相手に息子姚襄に戦わせた。

しかし姚襄が冉閔に負けたら、姚弋仲は姚襄をひどく鞭打った。

 

これだけ見ると、姚弋仲は無茶苦茶である。

 

姚弋仲は異民族だから、という色眼鏡で見ると、これで話は終わりだ。

異民族で儒教の考えもわからない、乱暴者と批判されて話は終わってしまう。

 

しかし姚弋仲はそこまで短絡的な男ではなかった。

 

ここで姚弋仲が姚襄をめっためたに鞭打つことで

姚弋仲がおかしい、姚襄が可哀そうだとして、

羌族の動揺を収めたのである。

ここまでして姚弋仲は姚襄を守ったのであり、

さらにそこまでして、石虎亡き後の後趙を守りたかったのだ。

姚弋仲は石虎が不死の病に伏しているときに、

「剣履上殿」「入朝不趨」までを許される。

剣を帯びて参内して良い、

参内するときに小走りしなくて良い、という特典で、

人臣最高位の条件のそれぞれ一要件である。

ただし「謁讚不名」は許されなかった。

皇帝が名で呼ばず、敬称で呼ぶというものである。

 

この三つの特典が揃うと、九錫を得る権利を獲得する。

その後、封地と王号を称することができたら、皇帝に対して禅譲を受ける(実際には迫る)

権利が発生するというものである。

 

話を戻す。

こうして姚襄が毀損しかけていた後継者としての素質への不安を

打ち消したのである。

 

後趙石氏や鮮卑慕容部のことであれば、

恨まれて、身内同士で殺し合うところだ。

 

ましてや、姚弋仲は非常に子沢山で、42人もの子供がいた。

 

にもかかわらず、羌族姚氏においてはそれがないのだ。

 

姚弋仲と姚襄のリーダシップ推して知るべしといったところか。

 

確かに羌族は異民族だったが、一族の結束は非常に固かった。

この風土を作ったのが姚弋仲である。

姚弋仲がどれだけ激しい性格でも、その信頼は揺るぎはなかった。

 

●参考図書:

 

 

五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書)

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歴史とは何か (第1巻) (岡田英弘著作集(全8巻))

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