北魏。鮮卑拓跋部が創った国である。
この鮮卑拓跋部は、古の漠北の強国、匈奴の後継者である。
- ●漢民族、因縁の相手匈奴
- ●前漢高祖劉邦を屈服させた冒頓単于
- ●匈奴を屈服させて真の中華皇帝となった前漢武帝
- ●後漢期に匈奴の事実上の滅亡。
- ●空白地の漠北に現れた鮮卑檀石槐
- ●中華で台頭する司馬氏と漠北で存在感を見せ始める鮮卑拓跋氏
- ●参考図書:
匈奴から鮮卑、拓跋氏へ
という流れである。
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●漢民族、因縁の相手匈奴
戦国時代の中期から末期にかけて、
徐々に登場し始める匈奴。
趙の武霊王が匈奴の在住地域を支配したことが直接のきっかけである。
のちに、秦の始皇帝は、
蒙恬を派遣して、匈奴を討伐。
匈奴を掌握する。
その後、
中華において
項羽と劉邦が争う楚漢戦争が起きると、
匈奴では、冒頓単于が台頭する。
匈奴族における弱肉強食の戦いに勝利した。
●前漢高祖劉邦を屈服させた冒頓単于
この冒頓単于が脅威的な存在になるころが
前漢高祖劉邦の晩年である。
高祖劉邦は、
韓信らの功臣の粛清により、
冒頓単于討伐にさし向ける臣下がいなくなっていた。
高祖劉邦が親征する。
これが前200年の白登山の戦いとなる。
冒頓単于の軍勢に、高祖劉邦は白登山にて包囲される。
謀臣陳平が、冒頓単于の閼氏(あっし)、つまり正妻を
調略して危機を脱する。
高祖劉邦は何とか休戦条約を結ぶも、
その内容は屈辱的な内容だった。
冒頓単于を兄とし、
定期的に貢物を送るという内容であった。
これ以後、
武帝の登場まで、前漢は雌伏の時を過ごす。
●匈奴を屈服させて真の中華皇帝となった前漢武帝
文帝の時に、
匈奴の討伐を検討した時もあったが、
まだ中華の完全掌握もまだだったため隠忍自重する。
景帝の時に呉楚七国の乱を経て、
ようやく中華の統一を実現。
景帝はその後数年で死に、武帝の代となる。
武帝は、祖父文帝、父景帝が蓄えた富を
国を傾けるほどに匈奴遠征に傾注。
最後は、
匈奴を屈服させる。
●後漢期に匈奴の事実上の滅亡。
匈奴は
その後南北に分裂したり、
漢に服属、離反を繰り返したりしたが、
最後は、89年後漢の竇憲が北匈奴を滅ぼした。
南匈奴は後漢の内地に軟禁され続ける。
この存在こそが皇帝の正統性の象徴の一つだからだ。
●空白地の漠北に現れた鮮卑檀石槐
その後、
漠北(ゴビ砂漠の北。つまり外モンゴル)、内モンゴルは
混乱の時代を過ごす。
後漢の介入もあり、まとまらない北方異民族だったが、
後漢の力が弱まると台頭したのが
鮮卑檀石槐である。
鮮卑は大興安嶺山脈の北を出身とし、
半牧半農の民族であった。
匈奴やモンゴルのような完全な遊牧民とは異なり、
幾分か漢民族に近いのが特徴である。
この鮮卑檀石槐が北方で猛威を振るう。
最盛期は、
後漢の桓帝、霊帝の時代である。
檀石槐は霊帝の時に死去。
その後鮮卑は分裂。
後漢も黄巾の乱が勃発し、
北方に介入できない。
中華は、
群雄割拠の時代から、
三国時代へと突入。
●中華で台頭する司馬氏と漠北で存在感を見せ始める鮮卑拓跋氏
三国時代、
魏が優勢ではあるものの、
249年の司馬懿による正始政変で、
司馬一族が魏を牛耳る。
北方では、
かつての匈奴の冒頓単于や、
鮮卑の檀石槐ほどの勢力はなかったが、
一つの有力勢力ができていた。
盛楽、いまのフフホトに割拠する、
鮮卑拓跋氏の拓跋力微である。
魏を牛耳る司馬氏一族が将来の
禅譲を見据えるようになると、
この北方の有力異民族がにわかに重要な存在となる。
既に、実態のなくなっていた匈奴では、
司馬氏の権威を上げることはできない。
古の匈奴のような、中華を脅かす異民族が必要で、
これを屈服させたという成果が司馬氏は欲しいのだ。
これに鮮卑拓跋氏が選ばれたのである。
●参考図書: