歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬昭が鮮卑拓跋氏に注目し、匈奴の後継者にした。

 

 

●258年に登場する鮮卑の拓跋力微

 

鮮卑拓跋部として正史に動向が知られるのが

三国志の魏の末のことである。

 

 

 

258年に盛楽、現在の呼和浩特(フフホト)に本拠を置いた。

すでに数万戸の勢力を持っていた。

 

この登場年、意外と重要である。

 

●258年、魏にとっての意味。

 

258年と言えば、

前年に反乱を起こした諸葛誕の乱が、

司馬昭の手により鎮圧された年である。

 

 

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司馬昭は兄司馬師が255年に急死、

その後を受けたが、

この諸葛誕の乱の鎮圧で名実ともに最高権力者になった。

 

司馬昭の父司馬懿が249年に正始政変を起こしてから、

魏の皇帝に実権はなくなっていた。

 

司馬懿、司馬師を経て、

すでに天下は司馬昭への禅譲を望むという趨勢になっていた。

 

司馬昭個人として、

魏の皇帝から禅譲を受けたかったかどうかは、

わからない。

既に司馬昭本人の意向などはともかく、

司馬昭が魏の皇帝から禅譲を受ける、という

道筋から外れるなどということはできない状況にあった。

 

 

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司馬昭が禅譲を受けるに値するにはどうしたらいいのか。

 

これは後世の我々が認識するよりもはるかに難しい命題であった。

 

王莽や、曹操・曹丕は

この問題に相当に悩みながら取り組んでいた。

 

そして、

司馬昭も悩んだのだ。

司馬昭が生きる時代において、

まだ二度の事例しかない。

 

禅譲の正当性、皇帝になるにあたっての正当性。

慎重にやらなければいけない。

後世の禅譲に比べると、非常に純粋と言える。

 

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王莽式の禅譲、曹丕式の禅譲、

そのベースになった条件を整える必要がある。

そして、皇帝足りうるという条件を備えるには、

皇帝らしいことを司馬昭が行う必要がある。

 

わかりやすい、皇帝らしいこと、

それは敵対勢力を服属させるというものである。

 

●司馬昭の政治課題の一つは、中華統一。

 

時は

三国時代末期。

 

現代の四川省には蜀漢、 

江南と荊州には呉が存在する。

 

その中で魏は元々人口も多く、

先進地域であったこともあり、

時間が経つにつれ、蜀漢・呉との国力の差を大きく引き離した。

 

はじめの国力差が、時が経つにつれ、複利計算で、

二次関数的に魏の方が大きく伸びるのである。

 

これら両国を滅ぼす。

これがまずは司馬昭の当面の目標となる。

 

滅ぼすというと軍事上の問題のように、我々現代の人間は考える。

しかし、当時の解釈は少し違う。

現実的にはたしかに軍事上の問題だが、

儒教的観点からすれば、これは司馬昭の徳が大きいから、

蜀漢と呉を滅ぼすことができたとなる。

 

司馬昭の徳が大きい。

だから、蜀漢と呉の民が司馬昭を慕う。

それに対して、

蜀漢と呉の君主は失徳の君主であり、

だから結果として、民に見捨てられた徳の少ない君主は、

有徳の君主司馬昭に滅ぼされる、

というロジックである。

 

●正統な中華皇帝にとっての最終政治課題は異民族の討伐。

 

このロジックを前提にしてほしい。

そして、

中華にとって、事実上の最終ターゲットは

異民族である。

 

この異民族を中華皇帝が「徳」で

服属させる。

こうすると、なんの疑いのない皇帝となれるのである。

 

これは、

前漢の武帝が匈奴を屈服させたことで

できあがった概念である。

 

それは

前漢武帝の先祖で曽祖父、前漢高祖劉邦が

前200年に代の白登山において、

匈奴の冒頓単于に敗れたからだ。

 

この因縁が、

中華皇帝とは、という中華思想と結びついてややこしくなる。

 

異民族を屈服させたものこそ、中華皇帝にふさわしい、

となる。

 

●皇帝となるべき司馬昭にとっての異民族は匈奴では不適格。

 

ここで司馬昭の話に戻る。

 

匈奴は実は服属していた。

匈奴は前漢武帝の後、

南北に分裂、

北匈奴は漢の攻撃により消滅、

南匈奴は漢に服属・背反を繰り返すも、

最終的には、

後漢の前半期に後漢に投降していた。

 

 匈奴の単于は、中華内地に食邑を与えられ、

本国と分断された。

 

匈奴はすでに後漢帝国の脅威ではなくなっていた。

 

後漢末期に匈奴の反乱があるも、

曹操が鎮圧。

曹操の対匈奴政策により、

匈奴は完全に力を失った。

 

皇帝たるには「匈奴」は必要である。

しかし、

司馬昭の時代にあっては、

曹操が匈奴を服属させてから既に50年以上経っている。

 

匈奴が異民族として中華に脅威だったのは

既に過去のことである。

 

それも、魏の曹操が屈服させた匈奴である。

曹操、その子曹丕の栄光の証明となった匈奴である。

 

これから曹操、曹丕が打ち立てた魏を滅ぼして、

自分の王朝を立てようとする司馬昭が匈奴を

自身の正当性証明に使うのは何ともバツが悪い。

 

そこで登場したのが、

鮮卑拓跋部の拓跋力微(たくばつりょくび)である。

 

 ●司馬昭が「匈奴」の後継者に鮮卑の拓跋力微を選んだのだ。

 

 

魏からの禅譲を狙う司馬昭。

司馬昭自身への禅譲が必然であるという証明を得るために、

前漢武帝や曹操にとっての「匈奴」と

同じ存在を司馬昭は探した。

 

それが鮮卑の拓跋力微であった。

 

現代のオルドス(中華名は河套。オルドスはチンギスハーンの事績に由来する。)

の北方で、黄河北岸、陰山山脈の南麓の

盛楽、今の呼和浩特に本拠を置いたのが拓跋力微である。

 

匈奴は、後漢に服属したが、

後漢末期に一度背いた。しかし曹操はこれを鎮圧。

 

これで、

匈奴は完全に

塞外の勢力、中華の外の勢力ではなくなってしまっていた。

 

これに代わって立ったのが鮮卑の檀石槐である。

 

檀石槐は後漢桓帝(在位146年から167年)のころに活動を活発化。

匈奴が居なくなって空白地となっていた

漠北で猛威を振るう。

 

一気にかつての匈奴の領域、つまり

モンゴル高原を中心に、

バヤンノールから包頭、フフホト、ウランチャブ、張家口の

旧黄河回廊(ここは昔黄河が流れていた。まっすぐ渤海に黄河は流れ込んでいた)を

支配した。

 

この檀石槐は184年に起きた黄巾の乱の少し前に死去。

その後は異民族の例に漏れず、

内乱で力を落とす。

鮮卑族がこれでそれぞれ分裂する。

 

中華も黄巾の乱から三国時代へと混乱の時代が続き、

この塞外の異民族に手を出す余裕はない。

 

漢民族も、異民族も混乱の時代。

それが三国時代であった。

 

258年時点で、

漢民族側をまとめつつあったのが司馬昭。

異民族側をまとめる可能性を秘めていた勢力が鮮卑の拓跋力微であった。

 

両者が手を組む。

 

司馬昭にとって、拓跋力微は漠北で勢力を確立していない。

力を持ちすぎていないところがちょうどよかったのだ。

 

 

●参考図書:

 

スキタイと匈奴 遊牧の文明 (興亡の世界史)

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五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書)

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魏晋南北朝 (講談社学術文庫)

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中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)

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中国歴史地図集 (1955年) (現代国民基本知識叢書〈第3輯〉)

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地図上的中国史 : 図説中国歴史(全22セット)

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