●異民族を打倒した西晋司馬炎は「英雄」である。
拓跋力微を西晋の衛瓘は謀略で敗死。
これで、
西晋司馬炎は匈奴だけではなく、北方異民族の掌握を実現。
中華正統王朝としての正統皇帝として、
異民族を掌握。
これは前漢武帝以来の正統皇帝としての証である。
衛瓘のこの業績は、司馬炎を偉大な皇帝へと押し上げたのである。
西晋の実態はともかく。
鮮卑拓跋氏の視点で見ると、
こうして
拓跋力微は魏末の混乱に乗じて、
勢力を立ち上げるも、
司馬炎による西晋の成立で水を差され、
衛瓘の策略で命を落とすという結末となった。
鮮卑拓跋氏はこれで一旦混乱状態となる。
●104歳で死去したとされる拓跋力微が北魏の始祖
後に北魏を建国した道武帝拓跋珪により、
この拓跋力微は、廟号始祖、諡号神元皇帝を贈られた。
始祖とは珍しい廟号だが、
北魏拓跋珪はこの拓跋力微こそが北魏王朝の大元だと言っているわけである。
しかしこの人物の実態は怪しい。
そもそも、生没年が、174年生まれの、277年死去ということで、
104歳まで生きたことになっている。
甚だ疑わしい。
これは実は、
匈奴にも同じようなことがある。
匈奴漢を建国した劉淵の父、劉豹も
甚だ長命であった。
詳細は下記記事を参照してほしいが、
結論として、正史上の劉豹は二人の人物を兼ねているということである。
●
この人物の結論は、二人の人物が重なっており、
本来二代あったのを、それだと不都合だったので、
一人にまとめたというわけだ。
のちの国家の成立の大元となるので、
表に出したくない部分は隠したのである。
北魏王朝は黄帝の子孫とされ、
この拓跋力微は天女の息子とされている。
神話の世界である。
天女の息子であれば100歳越えも可能だったというロジックであろうか。
二代掛けて北魏の起源鮮卑拓跋氏は勃興したというよりも、
一代で興ったとした方が、天命が下ったというロジックとしては
都合がよかったのだと思われる。
拓跋力微は後年の北魏にとって、始祖となる存在であった。
しかし、始祖として成立するには、
西晋司馬氏の支援というあまり知られたくない事実があったのである。
それが二代掛けて恩恵を受けたなどとは言いたくない。
天命を拓跋力微が受けたから、拓跋氏は勃興したのであり、
その天命に引かれて西晋司馬氏は我らが鮮卑拓跋氏を支援したのだと、
言いたかったのだ。
●拓跋力微の死後の身内争い
拓跋力微は、息子で後継者の拓跋沙漠汗を衛瓘の策略で、
誤認で処刑してしまった。
このショックで拓跋力微もその後死去。
104歳だったと言われる。
174年生まれ、277年の死去であった。
匈奴漢の劉淵の父劉豹と同じく、
2人の「拓跋力微」がいたのを、
1人に仕立て上げたのだと思われるが、
いずれにせよ、匈奴の後継者としての鮮卑拓跋氏を生み出した拓跋力微は
世を去った。
この後、鮮卑拓跋氏は混乱状態となる。
拓跋力微のあとを、
拓跋力微の子、拓跋悉鹿(たくばつしつろく)が継ぐも、
鮮卑拓跋氏に服属していた、烏桓を始めとした勢力は離反。
拓跋悉鹿は286年に死に、弟が拓跋綽が後を継ぐ。
拓跋綽が293年に死ぬと、今度は拓跋沙漠汗の末子拓跋弗が後を継ぐ。
しかしこれは1年しか続かなかった。
この辺りはどういった経緯かは不明だ。
しかし、拓跋力微が死んでから、
それぞれに部族を率いる鮮卑拓跋氏の部族長たちが、
力関係から大人となったと思われる。
拓跋弗の1年の在位は不自然であり、なんらかの政変が起きたのかもしれない。
異民族の流儀としては、
末子相続が基本。拓跋沙漠汗を継いだのがこの拓跋弗なのだが、
これを拓跋力微の子拓跋禄官が後を継いだ。
拓跋禄官が拓跋弗を打倒した可能性も高い。