歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

八王の乱の勝者司馬越に肩入れした鮮卑拓跋氏。~北魏の歴史~

 

●八王の乱は鮮卑拓跋氏の地位を確立した契機。

 

258年に鮮卑拓跋氏が正史に登場して約40年。

300年に、西晋だけではなく、

鮮卑拓跋氏にとっても運命を変える中華の大乱、八王の乱が起きる。

 

鮮卑拓跋氏は衛瓘の策が本当にはまっていたのだろう。

分断され勢力を弱めながらも、西晋との友好は維持していた。

 

八王の乱に際しても、鮮卑拓跋氏は、西晋が任命した

幷州刺史(はじめは司馬越の弟司馬騰、八王の乱後は劉琨)

の支援要請を受け続け、友好関係を保つ。

 

これが功を奏して、鮮卑拓跋氏は勢力を伸長させることになる。

 

●八王の乱の勝者司馬越側についた鮮卑拓跋氏

 

 

300年に八王の乱が勃発。

鮮卑拓跋部は、

幷州刺史の司馬騰の救援要請に従い、

兵を出す。

 

司馬騰は、司馬越の弟である。

司馬越勢力にとっての

この鮮卑拓跋部は非常に重要な戦力であった。

 

対する司馬穎らは、匈奴漢の劉淵の支援を受ける。

 

西晋の宗族が大将として立つも、

実際に戦うのは異民族という状況になる。

 

異民族同士の代理戦争である。

 

・劉淵に対抗するために司馬騰の要請を受けて鮮卑拓跋氏は動く。

 

具体的に動きは、

304年8月の匈奴の劉淵挙兵である。

劉淵が離石で西晋に反旗を翻す。

 

これに対して、

離石のある幷州都督の司馬騰は北方の鮮卑拓跋部に

援軍を求める。

 

離石に最も近い、鮮卑中部の大人拓跋猗㐌は10万騎余りを率いて援軍。

 

西部の大人拓跋猗盧・東部の大人拓跋禄官もこれに呼応。

事実上三分割していた鮮卑拓跋氏は、

ここでは連合して、司馬騰、すなわち司馬越サイドに加担した。

 

早々に劉淵軍を大敗させる。

鮮卑拓跋氏は古の匈奴と同じ地域を支配しており、

強大な軍事力を持っていた。

 

匈奴の劉淵の反乱は鎮圧できない状態のままではあるが、

西晋の八王の乱は

306年末、司馬越が最終勝利者となる。

鮮卑拓跋部は、この司馬越勢力に加勢したため、地位を更に上げる。

ただの異民族ではなく、司馬越勢力の与力へとランクアップする。

 

●鮮卑拓跋氏は拓跋猗盧が再統一する。

 

こののちの307年に拓跋禄官が死去。

拓跋猗㐌は305年に既に死去。

 

これにより、

西部拓跋部を盛楽にて統治していた拓跋猗盧(たくばついろ)が、

中部、東部も併せて統治することになる。

 

拓跋猗盧(たくばついろ)により、鮮卑拓跋部が再結集することになる。

 

拓跋猗盧は、継続して司馬越勢力に与することを継続。

 

司馬越は八王の乱を勝ち切って、

西晋の最高権力者となっていたので、 

鮮卑拓跋部もその支援者として地位が向上。

 

最高権力者と言っても、その背景には武力は不可欠であったので、

司馬越にとって鮮卑拓跋氏の存在は政局としても非常に重要であった。

 

その後、匈奴の劉淵が幷州を席巻するときも、

鮮卑拓跋部は一貫して、西晋・司馬越サイドに肩入れする。

 

西晋が滅びるまで、いや滅びた後も、

一貫して鮮卑拓跋氏は、西晋・東晋につく。

 

●八王の乱については下記参照

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