歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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鮮卑拓跋氏前半の年表 258年から376年

鮮卑拓跋氏が258年に魏に認められてから、

376年に前秦苻堅に滅ぼされるまでの118年について。

 

これが北魏、鮮卑拓跋氏の前半の歴史である。

後半は386年に鮮卑拓跋氏が復興してから、

534年に北魏が宇文泰と高歓の手により東西分裂するまで、である。

 

重要な年号は258年、277年、296年、315年、338年、376年である。

258年、拓跋力微、正史に載る。

277年、西晋衛瓘による、拓跋力微とその子拓跋沙漠汗に対する離間の計。

296年、拓跋禄官による、拓跋弗改葬。

315年、拓跋猗盧、西晋愍帝により代王となる。

338年、拓跋什翼犍、代王となる。

376年、拓跋什翼犍、前秦苻堅により滅亡。

 

●司馬昭・司馬炎により引き上げられる鮮卑拓跋氏。

 

258年に将来の禅譲を狙う司馬昭により、

鮮卑拓跋氏はその存在を承認される。

 

司馬昭は魏皇帝の権限を凌駕し、

禅譲寸前まで行くも、その直前で突如死去。

中風と言われる。脳血管障害の病気である。

 

その後すぐに長子の司馬炎が禅譲に成功。

西晋王朝を開く。

この一連の流れの権威付けとして、鮮卑拓跋氏は利用された。

 

決定的なファクターではないが、

皇帝たるものは中華文明に禍を与える異民族を討伐する者と、

前漢武帝以来歴史的に定義されている。

その根拠に鮮卑拓跋氏が使われたというわけだ。

 

現在のフフホトの一勢力に過ぎなかった鮮卑拓跋氏の首領、拓跋力微は

西晋に恩義を感じる。

古の匈奴の後継者の立ち位置になったのだから当然である。

 

●用済みの鮮卑拓跋氏は西晋衛瓘の手により嵌められる。

 

しかし、

西晋サイドとしてはそのままというわけにはいかなかった。

 

蜀を完全掌握し、呉を討滅するのにあと一歩となれば、

異民族の鮮卑拓跋氏が勢力を保つのは目障りである。

異民族の鮮卑拓跋氏は馬という軍事力の源泉を多数保持するので、

そのまま放っておくのは、国家的脅威でもある。

 

そこで、

司馬炎の謀臣、衛瓘が策を立てる。

277年、

鮮卑拓跋氏の首領、拓跋力微と、

その子の拓跋沙漠汗を離間の計にはめる。

 

拓跋力微は拓跋沙漠汗を誤って処刑、

そのショックのあまり拓跋力微も死去。

 

鮮卑拓跋氏は有力な後継者がいないことで混乱に陥る。

 

280年に西晋が呉を制圧した時には、

鮮卑拓跋氏は内乱状態であった。

西晋としては、胸を張って、中華統一王朝であると言える状態であった。

 

●拓跋禄官による西晋との修好

 

鮮卑拓跋氏の内乱が終息したのは拓跋力微死去から19年後の

296年である。

 

拓跋力微の末子拓跋禄官の手による。

拓跋禄官は長兄で衛瓘の策で

不慮の死を遂げた拓跋沙漠汗の長子、

拓跋猗㐌(たくばついい)、その次子拓跋猗盧(たくばついろ)と、

手を結び、鮮卑拓跋氏を三分割する。

 

拓跋禄官は東部を統治。今の張家口周辺と思えばよい。

拓跋猗㐌は中部を統治。今の大同市を中心とする代エリア。

拓跋猗盧は西部を統治。今のフフホト(呼和浩特)、

当時の名前で言うと盛楽。

鮮卑拓跋氏発祥の地である。

 

三頭政治で一旦鮮卑拓跋氏を押さえた拓跋禄官。

自身の正統性アピールのために、

先代の拓跋弗の改葬を行う。

 

これを活用して、

西晋との修好を図る。

 

これが功を奏し、

後に八王の乱で主役となる

司馬穎、司馬顒、司馬騰という西晋宗族から弔問の使者がやってくる。

 

当時の西晋は既に西晋武帝司馬炎はなく、

恵帝は暗愚とされ、その皇后、賈后の全盛期であった。

 

しかし後継者問題があり、

西晋の各宗族は、

将来の内乱に備えて戦々恐々であった。

 

西晋武帝司馬炎すら煙たがらせた鮮卑拓跋氏は、

そうした宗族たちにとって、魅力的な軍事力を持っていた。

 

そのため、

弔問の使者が派遣されたのである。

 

西晋にはめられ内乱に陥った鮮卑拓跋氏であったが、

拓跋禄官の現実的な対応により、

一気にかつての拓跋力微時代の存在感に立ち戻ったのである。

 

●八王の乱で司馬越に加担する鮮卑拓跋氏。

 

300年に八王の乱勃発。

 

304年に匈奴の劉淵が挙兵すると、

司馬騰が鮮卑拓跋氏に救援要請。鮮卑拓跋氏は劉淵軍を撃破。

 

ここから鮮卑拓跋氏の存在感が一気に高まる。

 

306年末、

司馬騰の実兄、司馬越が八王の乱を制す。

鮮卑拓跋氏はこの陣営に属していたことで恩恵を被る。

 

●苦境の劉琨を後援することで「代王」となる。

 

しかし、

匈奴劉淵の反乱は収まらず、

幷州を席巻する。

 

今度は、

汲桑・石勒軍に殺された司馬騰の後任として、

幷州の都督となった劉琨からの要請で

鮮卑拓跋氏は援軍を送る。

 

この時点で、

拓跋禄官と拓跋猗㐌は既に死去。

残った拓跋猗盧が

ほか2エリアを併合し、

鮮卑拓跋氏が一つにまとまる。

 

拓跋猗盧は劉琨の救援要請に忠実に対応。

 

その功により、拓跋猗盧は西晋から三つの重要なものを得る。

①現在の大同市、平城周辺、つまり代の領有権を得る。

②代という国を建てることを認められる。

③封爵ははじめ公、のちに王となる。

 

中華の歴史において、

初めて異民族が中華諸侯、それも王となった瞬間であった。

 

しかしながら、

ここを最盛期として内乱が起きる。

拓跋猗盧が316年に

後継者問題のもつれで長子に殺害されたことをきっかけとする。

 

ここで再度、鮮卑拓跋氏は低迷の時を過ごす。

 

●338年、前燕に従属することで拓跋什翼犍による鮮卑拓跋氏再統一。

 

今度は22年の断続的な内乱の時代を経て、

鮮卑拓跋氏は拓跋什翼犍のもと再度復興する。

 

拓跋什翼犍は329年に後趙石勒のもとに人質として送られていた。

 

338年、拓跋什翼犍の兄が死去。

これに代わって拓跋什翼犍が鮮卑拓跋氏の首領となる。

 

当時石虎は

遼東の鮮卑慕容部と戦っていて、

そのテコ入れもあった。

 

しかしながら、

鮮卑慕容部の方が優勢であり、

これを見た拓跋什翼犍は後趙から離れて自立する。

 

独自の元号を使い、百官を整えた。

独自の元号というのは、

ほかの国に従わないことを指し、百官を整えるというのは

つまり官僚制度を整えるということである。

自分自身で国家運営を行うということである。

 

そして、

拓跋什翼犍は鮮卑慕容部の慕容皝に従属する。

慕容皝の妹、その死ののちは娘を娶り、

鮮卑慕容部と手を組んで、石虎の後趙を対立しながら

勢力拡大を目指す。

 

●中華外の異民族として安定した勢力を誇る。

 

350年に後趙が崩壊。

その後、鮮卑慕容部が前燕として河北を制す。

 

鮮卑拓跋氏としては東側が安定したことにより、

漠北と旧黄河回廊の支配を安定させる。

 

前燕が370年に滅びるまでは、

安定した状態を継続させた。

 

西はオルドスを領する匈奴鉄弗部を傘下に収めていた。

 

●匈奴鉄弗部劉衛辰の裏切りと前秦苻堅討伐軍で鮮卑拓跋氏は滅亡。

 

370年に前秦苻堅の手により、

前燕が滅ぼされる。

苻堅はこれにより鮮卑拓跋氏支配地以外の華北を押さえた。

 

これにより、

前燕の従属国であった鮮卑拓跋氏は窮地に陥る。

 

最後は、376年に匈奴鉄弗部の劉衛辰が鮮卑拓跋氏を裏切り、

前秦苻堅軍20万を手引き。

拓跋什翼犍は衆寡敵せず、

鮮卑拓跋氏の代王国は

ここに滅びることとなる。

 

●参考図書:

 

 

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