拓跋珪が395年参合陂の戦いで後燕に大勝してから、
409年に死去するまで、北魏拓跋珪は破竹の勢いで
勢力を拡大する。
●参合陂の戦いとその後。
395年参合陂の戦い大勝利。
壮丁、つまり成年男子数万を生き埋めにする。
396年、後燕慕容垂による遠征。
3月に平城を落とされるも、陣中で4月に慕容垂死去。
慕容宝が後を継ぐも内紛。
これを見た拓跋珪は、出兵。
東に攻め、396年6月には現在の張家口周辺まで獲得。
ここまで獲得することで、代周辺のエリアを全て獲得したことになる。
張家口というのは、北京へのドアである。
モンゴル語では、カルガンと呼ばれるが、
これは「門」という呼び名のハルガから来ている。
張家口から東は険しい山々がある。
現代では張家口から北京への途中に
万里の長城の中でも、
最も観光客の多い八達嶺長城がある。
その先に居庸関。それを越えると北京のある平原へ出る。
このような地形のため、張家口周辺を押さえるというのは、
代エリアの防衛網を確立したことになる。
●一気に南下して後秦と戦い幷州まで勢力を伸ばす。
そして、続いて、代の平城から見て、南部の幷州を攻める。
396年9月には、後秦支配地の河東を除く幷州全域を確保する。
幷州の代、晋陽を含む山西高原、上党の三エリアを獲得。
河東は、北魏の支配領域から見て、入口となる平陽を確保して
引き上げる。
正に破竹の勢いである。
●太行山脈の東に出て冀州へ侵攻。
さらに今度は、
冀州方面へ侵出。
397年1月までに
後燕の帝都中山(今の石家荘市)、
冀州の州都・信都を陥落させ、
中華本土へ侵入する。
398年1月には旧前燕の帝都、鄴を陥落させて、
北魏拓跋珪は黄河以北の地を掌握する。
後燕はこのタイミングで、慕容垂の弟、慕容徳が
滑において勝手に自立。南燕が建国。
慕容徳は後燕皇帝慕容宝から燕の南部支配を任されていたが、
慕容宝を見限った。
398年2月には、慕容宝が北魏支配下で後燕の帝都中山を取り返そうと
強引に出兵。
しかし拓跋珪は慕容宝を撃破。
これで拓跋珪は河北の支配を確保。
慕容宝は後燕創業の地、遼東の龍城に帰るも、
398年5月に舅の蘭汗に殺される。
ここで一旦後燕は滅亡する。
後に、後燕は復活するも、支配エリアは遼東・遼西に限定され、
以前の中華帝国ではなくなっていた。
拓跋珪が395年参合陂の戦いで後燕を破ってから、
たったの3年で後燕は滅亡したのである。
●代の平城へ遷都、皇帝を称する。
一気に南と東に領土を伸長した北魏拓跋珪は、
398年7月に代の平城(今の大同市)へ遷都、
12月に皇帝を称する。
盛楽では、河北と幷州に勢力を伸ばした後では、
北西の端に寄り過ぎている。
もう少し前線に出るために、平城に遷都した。