歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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北魏道武帝拓跋珪が帝都を平城にする意味。

拓跋珪が代の平城に本拠を置いた理由。  

(代はエリア名、平城は都市名である。

平城は現在の大同市)

 

それは、北魏鮮卑拓跋氏帝国の持つ異民族気質を保ちたいと考えたからである。

 

そのためには、

平城のある代は、中華の地でありながら、実際は遊牧の地であるので、

拓跋珪にとってちょうどよい選択肢なのであった。

  

●趙襄子により中華となる代。

 

平城は中華文明の北端にあり、

北方遊牧文明からすれば、中華への入口、

という場所にある。

 

平城周辺は代と呼ばれていた。

戦国時代まで、ここは中華から見て異民族が支配する地域だった。

そこを、

春秋時代の末期、趙襄子(趙無恤)が謀略で掠め取る。

代の君主は、趙襄子の姉が嫁いだ先で、義理の兄であったが、

酒宴に呼んで、そこで暗殺した。

何ともひどい話だが、異民族だからという視点から、

許されてしまう。

余談だが、同じく戦国時代の秦の恵文王も、

蜀の異民族の王を騙し打ちしている。

 

異民族に対する強い差別意識を感じる。

 

●対異民族の最前線、代。

 

「晴れて」、中華勢力に支配されることになった代。

代は最後まで、戦国七雄の一つ、趙の支配下に置かれ、

軍馬を供給し続けて、趙を支えた。

 

秦の始皇帝による中華統一を挟み、

次は劉邦が前202年に前漢を開く。

 

その後、すぐに、劉邦と、匈奴冒頓単于が、

この平城の側で交戦する。

前200年、白登山の戦いである。

 

劉邦は大敗し、屈辱的な講話条約を結ぶことになる。

 

 

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●前漢文帝が封じられていたことから代は「中華」確定となる。

 

代は、引き続き前漢の支配エリアとなったが、

対匈奴の最前線であった。

荒涼な土地で、軍馬を産出するという点は大きいが、

それ以外に旨味はあまりない。

 

しかし、対匈奴の最前線であり、

下手な人間も置けない。

そもそも冒頓単于との戦いも、

ここの管轄であった韓王信が裏切ったから、

起きたものだ。

 

劉邦の身内でなければならない。

 

この貧乏くじを引いたのが、

劉邦の庶子、劉恒、のちの前漢文帝である。

 

文帝は前203年の生まれであり、代王となった当時、

4、5歳だったと思われる。

 

後にこの劉恒が前漢の嫡流を継いで皇帝となったことで、

代は絶対的に中華となった。

前漢の皇帝は、文帝の子孫であるのだから、

その出身地・代を、夷狄(異民族)の地とするわけにはいかない。

 

実際の代は、遊牧文明に即した地域だが、

こうした背景により、中華の地、すなわちチャイナプロパーとなる。

 

しかし、

代、その中心地、平城は、

中華の歴史に頻繁に出てくる地名でありながら、

実態は遊牧文明のエリアであった。

 

●拓跋珪は対中華最前線の平城に遷都。

 

拓跋珪は、この代の平城に着目。

中華としての歴史がありながら、

実態は遊牧エリアである、この代は、

拓跋珪が構想する、北魏像にぴったりであった。

 

 

398年にまず盛楽から平城に遷都、

その後皇帝を名乗る。

 

既に、太行山脈の東側で黄河以北の冀州は掌握。

 

後趙の石勒、後燕の慕容儁のように、

襄国や鄴に遷都してよいタイミングである。

 

しかし、拓跋珪はそうしなかった。

拓跋珪の偉大な決断の一つである。

 

拓跋珪が、異民族エリアの平城に留まった明確な理由はわからない。

 

拓跋珪の立場に立って考えるのならば、

後趙や後燕が異民族としての気質を失ったことで

結局滅びたと考えたからではないかと私は思う。

 

石勒、慕容儁は荒々しい性格で、勇猛果敢だった。

しかしその後継者は、「文弱」だった。

というよりも、

襄国や鄴といった、中華領域は、農耕文明なので、

統治手法を学ぶには、文弱にならざるを得なかった。

馬を操って狩りをしている場合ではなかった。

 

そうすると、

異民族の血筋であっても、自然と漢化する。

 

異民族が中華に侵入できたそもそもの理由である、

軍事力を失ってしまうことになる。

 

馬を扱えない、馬を使った組織戦ができなくなる。

 

それは、異民族が事実上異民族でなくなることを意味した。

 

拓跋珪は、

正しく異民族としての戦上手、慕容垂には勝てなかったが、

彼の後継者慕容宝には大勝した。

 

その理由を辿ったのではないかと私は考える。

 

●漢化を避けた拓跋珪。

 

中華の都市には、

物資がたくさん蓄積されている。

そこにドカッと居座って富を享受したい。

 

それが人情というものだろう。

 

しかし、拓跋珪はそうはしなかった。

 

代わりに行ったのは、

諸部族の解体および部族民を皇帝所有に変えることである。

 

代の平城で遊牧文化を維持しながら、

皇帝拓跋珪への中央集権を推進する。

 

つまり、拓跋珪は中華の高い文明力よりも、

異民族の高い軍事力を優先した。

 

これにより、

拓跋珪以後の北魏皇帝は、

皇帝ひとりで高い軍事力を有することができた。

直属なので、動員スピードも速い。

すぐに兵を収集できるので、すぐに動けるのは非常に大きい。

 

まとめると、拓跋珪は、

異民族文化を維持し、軍事力を保有。

さらに異民族の弱点である、諸部族林立を、

部族民を皇帝直属にすることで、

北魏を強い軍事国家でかつ皇帝集権国家へと

変貌させる。

 

のちに、

高い軍事力を背景に、

拓跋珪の孫、太武帝は華北を統一するのである。