歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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鮮卑拓跋氏の国号は何故「魏」なのか③~匈奴にならう拓跋珪。~

「鮮卑拓跋氏の国号は何故「魏」なのか」

①②で、

国号決定のアプローチについて述べた。

ここでは、拓跋珪が「魏」という国号にした理由を明示したい。

 

 

 

●鮮卑拓跋氏と「魏」をつなぐ「細い線」

 

普通のアプローチでは、

拓跋珪と魏という国名との由来が全く分からない。

 

そこで、

鮮卑拓跋氏として考えてみる。

 

歴史を辿る。

 

鮮卑拓跋氏が正史に載ったのは、

拓跋力微の時に、魏に朝貢したのが始まりである。

258年の時。魏の、時の最高権力者は司馬昭である。

 

鮮卑拓跋氏の大人、拓跋力微が朝貢したのが、

「魏」であった。

 

・・・?

 

鮮卑拓跋氏と「魏」をつなぐ点は、

これしかないのである。

 

全く何のことかわからない。

これが大半の方の本音ではないか。

 

私の同様の認識だったが、

鮮卑拓跋氏と「魏」を結ぶ接点がどうにもこれしかないと、

分かったときに、拓跋珪の気持ちが分かったのである。

 

●もう一度、代ではダメな理由。

 

拓跋珪は代を復興した。

 

しかしながら、

代という国号は、

西晋・東晋あっての国号。

のちには、前燕あっての国号であった。

 

しかし、

386年当時、淝水の戦いがあったとはいえ、

東晋は衰退するばかり。

改めて、東晋と結ぼうとも思わない。

戦略的に必要な外交でもない。

 

華北において、

拓跋珪たちと同じような異民族は、

秦とか燕と名乗っていた。

(前とか後とか国号の前につくのは歴史学上の必要性からであって、

彼らの国号はあくまで一文字である)

 

つまり、

約70年前に代という国号を名乗ったときのようなインパクトは

既になかった。

 

当時は匈奴の劉淵が名乗った漢と、西晋しかなかった。

 

異民族の鮮卑拓跋氏が代という国号を名乗れるのは大きな意味があったが、

既に時代は進んでいた。

 

代では格が劣る。

 

代ではない、何かが欲しいと拓跋珪は考えた。

 

●東晋が有する天命に対抗したい拓跋珪。

 

鮮卑拓跋氏、拓跋珪にとって唐突な「魏」。

 

私はこの時に必死になってよい国号を探したのだと思う。

 

江南に東晋がいる。

この王朝は、当時は漢を継ぐとしている。

桓温の台頭により、魏からの禅譲ではなく、

蜀漢からの天命を受け継ぐことになっていた。

 

慕容垂の燕(後燕)は、

慕容皝時代に燕を名乗り、後に東晋に追認されたことに由来する。

 

燕は地名でもあり、天子王朝を建てた由来があるので、

それでよかった。

 

しかし拓跋珪にとってこのような名前がない。

さらに考える。

 

●匈奴にならったから、拓跋珪は「魏」とした。

 

ここで結論だが、

拓跋珪は、異民族で中華王朝を建てた先達、匈奴にならったのである。

 

鮮卑拓跋氏は、

北方異民族としては、匈奴の後を受け継ぐ形で勃興した。

 

拓跋力微の時代においては、

劉淵の先祖は、魏に中華の地において事実上囚われの身であった。

 

八王の乱において、

劉淵は離石の地において独立。

「漢」を名乗る。

 

繰り返しだが、

漢を名乗った由来は、

匈奴と漢が兄弟の契りを結んだことに由来する。

 

匈奴が対立する晋は、漢から天命を奪った魏を受けている王朝なので、

イデオロギーとしてもちょうどよかった。

 

匈奴の劉淵が漢を名乗る。

これも少々無茶がある。

 

しかし、

異民族の、中華の王朝との関わり合いが、

国号の由来となる、初めての事例である。

これを理由に、漢王朝永続論に則ることとなった。

 

拓跋珪はこれにならったのである。

 

●曹操・曹丕の「魏」を継ぐ拓跋珪の北魏。

 

匈奴漢の劉淵にならい、

拓跋珪は、曹操・曹丕が建てた魏を継承するという形で、

魏を称した。これが結論である。

 

拓跋珪の先祖鮮卑拓跋氏は、

魏に朝貢したことで表舞台に出た。

 

朝貢したというと上下関係があり、聞こえが悪い。

 

匈奴と同じように、同盟を結んだことにする。

 

となれば、鮮卑拓跋氏は、魏と契りがある。

兄弟の契りはなかったが、まあ同じようなものだ。

そもそも同盟というのは兄弟になろう、みたいな部分がある。

 

とすれば、

鮮卑拓跋氏は、魏を名乗る権利がある。

匈奴が漢を名乗ったように。

 

上記のように魏は天子王朝を名乗れる。

格も最も高い国号の一つである。

 

そして、魏を引き継ぐということにすれば、

東晋にも、苻堅の秦にも

格の部分で全く負けていない。

 

曹丕が建国した魏を引き継ぐ。

 

北魏の歴史を書いた、

『魏書』巻1・序紀では、

曹丕が禅譲された220年(庚子の年)に、

北魏の始祖・拓跋力微の元年を置いている。

これは曹魏が天命を受けたと同時に、

北魏も天命を受けていたという主張であるが、

そもそも、拓跋珪の時に「魏」という国号を選んだ時点で、

魏の天命を永続的に受け継ぐという思想ができたことを

裏付けるものである。

 

そもそも、

拓跋力微は220年時点では、

多分鮮卑拓跋氏の大人ではない。

この上記の説を作るために長寿にさせられた。

 

この辺りも劉淵の匈奴の創作された歴史と似通っている。

 

こうして、

拓跋珪は、匈奴漢劉淵の例にならい、

国号を魏とした。

劉淵が漢を継ぎ、永続的に漢は続くとしたのと同じように、

拓跋珪は魏を継いだのである。

 

そもそも、

ここでの拓跋珪の考えには、禅譲という考えがない。

放伐という考えもなく、

あるのは魏の復興、継続である。

 

●魏の永続性を鮮卑拓跋氏が継ぐ。

 

漢=晋

に対抗する、

魏=鮮卑拓跋氏の永続王朝。

 

そして、前代の異民族勢力、匈奴の漢に対抗する。

 

それが拓跋珪の魏という国号を選択した理由である。

 

魏の理由は、

禅譲でも封地でもないのである。

 

あるのは、

鮮卑拓跋氏と魏の同盟(実際には朝貢)関係のみ。

 

これを拡大解釈して、

匈奴と漢の関係に昇華させ、

魏を鮮卑拓跋氏が継ぐという

ストーリーにしたのである。

 

これが結論である。

崔宏が自身の出身だから推薦して、

それを拓跋珪が採用したというような単純な理由ではない。

 

もちろん拓跋珪一人で考えられるような話ではない。

崔宏を含めた漢人官僚たちが、拓跋珪の指示のもと、

古例、事例、当時のイデオロギーなどを総合的に検討。

 

それに叶ったのが、「魏」だったのである。