歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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崔逞の失言?~北魏皇帝と清河崔氏の因縁の始まり~

崔逞(さいてい)。  

名族清河崔氏の出身である。

 

 

北魏道武帝拓跋珪は、

またたくまに河北を制圧。

後燕に仕えていた漢人官僚を数多く登用。

 

その一人が崔逞である。

 

●名族・清河崔氏は斉の末裔。

 

崔氏。

これは春秋時代の斉(呂斉とか姜斉とか言われる)の

公族出身だ。

最も有名な人物は崔杼(さいちょ)であろう。

 

斉桓公の死後、国勢が衰えたが、

崔杼の登場により、斉は再度大国として復活した。

その権力は公を凌駕するもので、

一般的には権臣として有名である。

 

斉というのは、

春秋戦国時代の中で後世、最も尊崇されている国であり、

この公族の末裔というだけで相当に尊敬されていた。

三国志の陸遜出身の呉郡陸氏も斉の末裔である。

 

 

●崔琰、曹操に誅殺されてさらに名を上げる。

 

さらにこの一族の名前を興隆させたのは、

後漢末の崔琰(さいえん)である。

 

彼は清廉潔白な知識人で、直言居士、

民を思い、仕えていた曹操さえも恐れず諫言した。

姪が曹植の妻でありながらも、

曹操に後継者について相談されると曹丕を推薦。

司馬朗と仲が良く、司馬懿の才能を見出し、推薦。

 

崔琰はこのように、

後漢後期に理想とされた清流派官僚の流れを汲む

人物であるが、

最後に曹操の不興を買って殺される。

 

曹操という人物は、

石勒など異民族皇帝や桓温のような実力主義派の人間には

支持されるが、

漢人官僚には好かれない。

 

そもそも、異民族侵入のきっかけは曹操が創ったのである。

漢人官僚が主に信じていた漢王朝永続論を禅譲という手法で

実力主義に変えたのは曹操である。

 

最後に、崔琰が曹操に殺されるのは、

この一族を際立たせるのにふさわしいエピソードであった。

 

●漢人を掌握するための、清河崔氏。

 

清河崔氏の一族は、

出自重視の西晋を経て、

名族となる。

西晋の祖、司馬懿を

崔琰が推挙したというエピソードも功を奏した。

 

漢人官僚の心を掴むにはこの漢人知識人の代表格、

清河崔氏を重視すべきなのである。

 

なお、後に唐が滅びるまで、

この一族は漢人のトップであった。

 

●漢人グループのトップとして異民族皇帝とのコミュニケーションに苦労する。

 

しかしながら、

清河崔氏にとって、

西晋の滅亡は不幸の始まりであった。

 

これがあったからこそ、のちの隆盛があるわけだが、

五胡十六国時代から南北朝の清河崔氏は受難の時と言える。

 

●清河崔氏、受難の始まりが崔逞。

 

崔逞は崔琰の玄孫である。

曾孫(ひまご)の子である。

 

漢人の知識人が異民族に仕えるというのは

現代の我々が思う以上に苦労したものだったと思われる。

 

崔琰の子孫、崔逞は当然、

四書五経をそらんじていた。

つまり丸暗記していた。

 

四書五経の世界を元に、

中華世界の運営、統治を行う。

それが漢人知識人の概念である。

 

崔逞は先に後燕に仕え、

後に北魏に仕える。

 

その時に、皇帝が異民族であるという概念はあったのだろうか。

 

そもそも異民族が皇帝になることはできない、

という概念が中華にはある。

 

しかし、崔逞の目の前にいる皇帝は

鮮卑という異民族だ。

だがたとえ異民族だとしても、皇帝は皇帝である。

 

私は崔逞は皇帝拓跋珪を異民族として扱っていたのかどうか

少々疑問に感じる。

 

●保守的だからこそ漢人知識人のトップ足りえる。

 

この崔逞を始めとした

漢人知識人は、四書五経をそらんじて、

当意即妙にそれら事例をもとに政治判断をする。

 

それこそが中華世界の安定運用の肝である。

四書五経自体が法律のようなものなのである。

 

そこから逸れた概念を使うことはない。

むしろ、そこから逸れた概念を使うことができないからこそ、

漢人知識人のトップ足りえる。

 

逸脱した概念を使えたら、

それは異端児であり、漢人知識人とは言えない。

曹操などはその類いであろう。

 

崔逞は当然先祖崔琰と同じく、漢人知識人のトップの一人である。

 

この崔逞は拓跋珪の諮問に対して、

詩経にある、桑の実を食べる夷狄になぞらえて、

答えるのだが、

それがどこまで侮辱する意図を持っていたのかは

甚だ不明である。

 

確かに婉曲的に拓跋珪ら異民族を貶そうとした可能性は大いにある。

しかし、

もしも崔逞が非常に不器用な人間で、

四書五経の世界から逸脱ができない人物であれば、

ただ素で、中華皇帝に対して答えるがごとく、

言ってしまったという可能性も捨てきれない。

 

のちの、同族の末裔、崔浩も

同じようなところがあるので、

決して崔逞が命を懸けてまでこのような

アイロニーを投げかけたと言えるのかどうか。

 

少々疑問符が残る。

 

●崔逞が積極的に拓跋珪を攻撃するのだろうか。

 

拓跋珪は、異民族皇帝として初めて、

自身で漢人統治をしようとした人物である。

その道は平易ではなく、トライアンドエラーが続く。

 

当然、

漢人官僚の側としても、

上に異民族皇帝を戴くというのは簡単ではない。

 

その変化にアジャストするための、一つのエラー、

それが崔逞の失言だったのではないかと、

私は考えている。

 

 これで本当に命を懸けるのか。

意図的だとしてもそこまでにはならないだろうとして、

言ったとは思う。

しかし、そこまで漢人知識人は柔軟だろうか。

そこまでして、異民族皇帝と戦うほどまで気概を持つのだろうか。

 

私は甚だ疑問である。

それよりも、漢人知識人のトップの出自として、

保守的になるのが当然ではないかと私は考える。

 

崔逞が道武帝拓跋珪と戦うために

嫌味を言うほどの気概があるとは正直思えない。

ただ、素で言ってしまった。

つまり失言だったのではないか。