歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

北魏二代皇帝明元帝拓跋嗣 隠れた名君

明元帝の在位は、

409年から423年である。

 

偉大な業績を挙げた父と子の間で、

目立たない存在だが、

相当な名君、かつ異民族皇帝らしい

荒々しさを持つのがこの明元帝である。

 

明元帝治世当時、国力、対外情勢、また外交戦略上、

北魏は非常に充実していた。

 

 

 

 

●北魏明元帝を支える、長孫嵩と崔宏という名臣。

 

この治世を支えるのは、

長孫嵩と崔宏である。

両社とも先代道武帝拓跋珪に引き続いて武と文のトップとして

明元帝を輔佐する。

 

長孫嵩は臣下として異民族トップ、

北魏宗族のトップ(跋跋氏)で

北魏建国の元勲である。

軍事部門のトップとして軍事を統括。

長孫嵩は後燕、柔然、夏討伐といった北魏の大規模出征に関して、

高い武勲を挙げる。

 

一方、崔宏は清河崔氏の出身で、後燕の時から漢地の行政に関して

手腕を発揮。明元帝の父道武帝拓跋珪が後燕を滅ぼしたのち、

崔宏は北魏に仕える。北魏の国家制度・官僚制度を整える。

すなわち、律令(つまり法律)、官爵制度、朝廷における儀礼など。

418年に崔宏は死去するが明元帝の治世前半をサポートする。

 

●明元帝は華北支配を完成

 

明元帝の治世は、

409年から423年。

 

この時期は東晋で劉裕が権力を掌握していく時期とちょうど重なっている。

 

明元帝が即位後、すぐに410年・411年と

漠北の柔然(じゅうぜん)を長孫嵩(ちょうそんすう)を

使って攻撃。柔然を下し、後方の安定を確保。

414年にもう一度、北魏は柔然と戦うが勝利、こうして柔然を屈服させる。

 

柔然を屈服させ華北の支配権を確保した、

北魏は既に華北に留まらず、中華全土に影響力を及ぼすこととなっていた。

 

明元帝の父道武帝拓跋珪の時に、

関中の後秦を抑え込むことで、(407年の講和)

事実上北魏は華北においても相対的優位に立ったのである。

 

これにより、

今度は、

黄河以南の東晋との外交関係が出てくる。

 

東晋としては、異民族王朝北魏は倒すべき相手であるので、

対立前提の関係となる。

 

●明元帝期における東晋は劉裕の台頭期。

 

しかしながら、

当時の東晋は、皇帝による支配ではなく、

桓玄による簒奪を404年に打倒した劉裕が

権力を握っていた。

 

劉裕は北府軍という軍閥を率いる最高権力者であり、

東晋皇帝およびその宗族を凌駕していた。

いわゆる、軍閥である。軍事政権である。

410年に劉裕は北伐を敢行し、山東省にあった

南燕という後燕の残党政権を滅ぼす。劉裕は名声を著しく上げる。

 

東晋王朝はそんな劉裕の前に風前の灯火。

 

東晋宗族として、

最後の抵抗をここで試みるのが、

司馬休之、司馬文思父子である。

 

●東晋宗族最後の反劉裕活動、司馬休之

 

司馬休之は東晋の宗族(今風に言うと皇族)である。

 

404年の桓玄の乱の後、東晋の実権を握った劉裕は

412年、司馬休之を都督荊州諸軍事に任じる。

これは劉裕のライバルであった劉毅が

都督荊州諸軍事(つまり西府軍)であったが、

同年に劉裕が劉毅を滅ぼしたので、その後釜としてであった。

 

司馬休之は荊州の人心を掌握、高い名声を誇った。

これを危険視した劉裕は、

司馬休之に謀反の疑いをかける。

 

司馬休之は劉裕のそうした扱いに対して、

隠忍自重の時を送る。

 

しかしながら、415年、劉裕は司馬休之の実子と甥を殺害し、

軍を向ける。

 

司馬休之は皇帝安帝に上奏して弁明するも、

安帝は重度の知的障害であったため、

内容を認識することも判断することもできなかった。

 

司馬休之は劉裕軍に反抗しようとするも、襄陽に追い込まれる。

 

ここで、

北魏明元帝は司馬休之支援のため援軍を出す。

将帥は、長孫嵩。

長孫嵩は異民族サイドとしてのトップの武官であり、

北魏皇帝の宗族であり、北魏建国の元勲である。

(後に唐太宗の皇后となる長孫氏はこの長孫嵩の子孫である。)

 

長孫嵩を出したことで明元帝が

本格的に劉裕と敵対しようとしていたことが分かる。

 

しかしながら、

司馬休之は劉裕に敗れ、

後秦に亡命する。なお、この時の亡命メンバーの中には

桓温の孫も含まれている。

 

後秦天王姚興は司馬休之らを迎え入れ、

揚州刺史とした。

つまり、後秦としては東晋を滅ぼした暁には、

司馬休之を建康含む揚州を委ねるという意味である。

これは後秦の東晋に対する敵対意思を明示している。

 

これが

417年の、劉裕の対後秦北伐につながる。

 

 ●劉裕北伐 後秦を併合

 

劉裕は北伐の軍を起こし、

417年後秦を滅ぼす。

 

これは後秦が司馬休之ら(桓温の子孫含む)の亡命を

受け入れたことを東晋に対する宣戦布告と捉えたためである。

 

当時、姚興は既になく、子の姚泓が後を継いでいた。

しかし、姚泓は「文弱」で後秦はまとまらず、

そこを劉裕は突いたのであった。

 

実は当時後秦は事実上、北魏の従属国。

 

司馬休之らは、劉裕の軍が迫ると、

今度は北魏の長孫嵩の下に逃げ込む。

 

●東晋宗族司馬休之という大義名分を手に入れる北魏明元帝

 

その後ほどなくして司馬休之は死去した。

子の司馬文思は引き続き北魏に登用され、

最終的には譙王にまでなった。(司馬休之・司馬文思の家は譙王家だからである。)

 

北魏としては、

東晋司馬氏の宗族の亡命を受け入れることで、

劉裕、のちに劉宋を

攻撃する大義名分を得たことになる。

 

当時の漢人知識人はどれだけ、

異民族皇帝が善政を行おうと、

南の東晋が本来の中華の主人であるという

認識を崩さなかった。

 

しかし、

東晋が劉裕に乗っ取られようとする今、

その東晋の宗族を匿う異民族の北魏皇帝の方が、

権威が上回ってしまった。

 

これがこれまでの異民族王朝と

北魏が異なる点の一つである。

 

●劉裕、東晋から禅譲、北魏は旧東晋復興という大義名分で南北対立。

 

 

劉裕と司馬休之の争いが、

後秦、そして北魏までに影響を及ぼすに至って、

北魏は東晋、というよりも劉裕と対立することになる。

 

劉裕は、司馬休之および桓温の子孫を東晋から追い出し、

東晋内を固め、

420年、いよいよ禅譲を成功させる。

 

国号は宋。

歴史上は劉宋と呼ばれることが多い。

 

劉裕は422年6月、在位約2年にして崩御する。

 

●北魏、黄河を南下

 

 

劉裕の死去をチャンスと見た、

明元帝は422年10月に

手始めに、滑台を攻撃させる。

滑は春秋時代からの黄河の主要な渡河地点で、

黄河の南北両岸を掌握するには

必須の都市である。

 

しかし、配下の武将では滑台を

攻略できないと見ると、

明元帝は怒り、親征を決める。

 

父道武帝拓跋珪、

子太武帝拓跋燾に挟まれ、

あまり目立たない明元帝。

 

しかし両者に負けず劣らずの

荒々しい北魏皇帝であることが

ここから垣間見える。

 

明元帝の親征に至ったことで

この戦いは大規模な戦いとなる。

 

一般的に南北朝時代は

439年の北魏の華北統一からなので

まだ先だが、

これが、

第一次南北戦争とされる。

 

東晋十六国時代として考えるのなら、

東晋が滅びた今、南北朝とも見ることができる。

 

423年4月に、

明元帝は、青州・豫州を奪取。

 

黄河南岸の成皋城に入城。

虎牢城の攻城戦を督戦する。

虎牢城はのちに攻略。

 

まさに北魏の快進撃である。

ここまで来れば、

黄河渡河地点は完全掌握したと言っていい。

 

さらにこの両城は洛陽の防壁としての

存在である。

ほぼこの時点で北魏は中華の象徴、

洛陽を掌中に抑えたとも言える。

 

さらに、

一気に淮水線、長江線まで

迫るかという勢いの中、

にわかに明元帝は親征中に病を得る。

 

そしてそのまま急死する。32歳のことであった。