歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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元号「令和」の由来。

2019年5月1日に改元となり、

「平成」から「令和」となる。

 

 

「令和」は万葉集に由来して決定された。

以下、ハフポストから引用する。

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新元号の出典は、

日本最古の歌集「万葉集」の「梅花(うめのはな)の歌三十二首」。

日本の古典に由来する元号は初めて。

新元号選定にあたり、以下の序文から引用したという。

「初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和ぎ、

梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫す」

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下記が原文である。※ウィキペディアより引用。

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于時初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香

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日本の元号というのは、「平成」まで、

すべて、漢籍(中国の古文書)に由来して採用されてきた。

日本の古文書に由来する元号というのは史上初のことである。

 

◼️◼️しかしながら、

私は、この年号は、

実は日本由来ながらも、漢籍にも由来し、

実は相当に考え抜かれた元号である、ということを主張したい。

 

●大和言葉の当て字である万葉仮名。

 

なぜこれまで、

漢籍をもとに元号を選んできたか。

 

万葉集は、

日本に現存する最古の和歌集であるが、

その内容は、

漢字と、漢字を使った当て字で構成されている。

 

漢字を使った当て字、これを万葉仮名と呼ぶが、

これを使って、大和言葉を表現した。

 

つまり、日本の土着の言葉を、

漢字の表音に当てはめて、使用したということである。

 

事例を挙げる。

雄略天皇のことと推定される、

「獲加多支鹵(わかたける)大王」。

 

「わかたける」という名前の大王がいるが、

この当時は、平仮名がなかったので、

漢字の表音に沿って、当てはめた。

それが「獲加多支鹵」である。

「獲加多支鹵」=「わかたける」となる。

 

獲加多支鹵という漢字自体に意味はない。

漢字自体は、表意文字なので、

本来はその文字自体に意味があるが、

万葉仮名としての使用になると、

意味がなくなる。

 

これが平安時代の平仮名(ひらがな)につながる。

そもそも、周知の通り、ひらがな自体が漢字をくずして書いたものである。

 

万葉仮名からひらがなに至るまで、

日本は、一生懸命、漢字を自国に取り込もうとしてきた。

 

漢字と大和言葉の融合。

それが日本語である。

 

漢字自体の意味は持ちつつ、

大和言葉をひらがなで融合させるというのが、

日本の答えであった。

 

時代を経るにつれ、

日本独自の漢字の使い方、意味というのが出てくるが、

万葉集の時代では、

まだ取り込み最中なので、

漢字の使い方というのは、

中国の漢籍に使われた用法に則って使われた。

 

●漢字の使い方は前例主義

 

近代中国語は、

日本語の文法に従って、文法が定められたが、

それ以前の中国語は実は文法がない。

では、どのようにして語順を決めたか。

それは、中国の漢籍で使われる語順などに倣って、

使用する。だから、清以前の漢族官僚は漢籍の丸暗記が

求められた。

 

「初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和ぎ、

梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫す」

 

奈良時代末期に成立したとされる万葉集から、

引用された上記の文章だが、

つまり、

語順は漢籍に則っている可能性が高いということになる。

 

現代日本において、

令月という言葉はあまり使われないが、

意味を紐解くと、

「何をするにもよい月」となる。

これは上記文章の意味には当てはまらない。

 

万葉集成立当時の意味があるわけだが、

それは、いわゆる「日本語」が成立する前なので、

奈良時代末期以前の漢籍に由来する使い方、ということになる。

 

●漢字使用の前例を知りうる教養人のみが知りうる世界

 

ということで、

万葉集が成立した奈良時代末期ごろの

日本における言葉の使い方は、

漢籍に由来するとなる。

 

これが当時の政治エリートの教養でもあるからだ。

 

そこで出典を辿ると、

中国南北朝時代の梁の昭明太子の編纂により成立した、

「文選」に収容されている「帰田賦」に行き着く。

 

「於是仲春令月,時和氣清」

という文章からはじまる。

 

万葉集の、

「于時初春令月 氣淑風和」

と似ている。

 

これを現代風に悪く言うと、

パクリとなるが、

当時の漢籍文化としては、教養高い詠みかたと言える。

 

そもそも、

万葉集のこの和歌を詠んだ人は、

文選の帰田賦を認識、暗唱している可能性が高い。

そして、この和歌を読んだ人は、

帰田賦に由来していると認識し、

より深く、

この文章が表現する情景を認識する。

 

これが、漢籍を中心とする、

漢字文化の真骨頂だと私は思う。

 

少しややこしいが、

まとめると、

万葉集の時代、漢字の使い方は、

漢籍に則っているのが教養、ということである。

 

当時の教養人は、

それを明示しなくても、みなわかると言うのが

共通認識であった。

 

●帰田賦こそ当時の知識人たちの知的な本音

 

帰田賦だが、

これは、

一言で言うと、

景色の素晴らしい故郷に帰って、

農業に勤しんで過ごしたい、という文章である。

 

作者は、張衡である。

彼は後漢の漢人官僚だったが、

当時の順帝は宦官を重用した。

 

宦官は、漢人官僚と対立しており、

その中で、張衡は冷遇された。

結果、張衡は官を辞して故郷に帰る。

 

その際に詠んだ漢詩である。

 

現代の感覚からすると、

張衡は、

朝廷内に居場所がなくなり官僚を辞めて、

田舎に帰る淋しい人となるが、

当時はそうとも言い切れない。

 

この時代、

老荘思想が知識人の間では、

強く支持されていた。

老荘思想に則って、

社会を生きると、

無為自然、流れに任せて生きることこそ、

良いとされた。

晴耕雨読の生活というが、

これが、

我々がイメージできる老荘思想の本来の在り方である。

 

劉備と出会う前の諸葛亮は、

晴耕雨読の生活をしていたとされるが、

無官のまま悶々としていたとされないのは、

上記のような背景がある。

 

前漢の二代目丞相曹参は、

老荘思想に則って政治を行い、

前漢は治った。

もちろん、

先代の丞相蕭何が諸々を整備したからであるが、

その蕭何を継承し、

無為自然に統治することこそがよかった。

 

蕭何が理想とされると、

それをそのまま受け継ぐ曹参は素晴らしいとなる。

 

蕭何が整備した時代は、

変化も大きく大変であったはずなので、

曹参の無為自然が良いとなる。

少々逆説的だが、

こうした発想が当時はあった。

 

また、

張衡が生きた後漢の後の、

三国志の時代の魏晋においては、

清談という老荘思想が流行した。

 

竹林七賢に代表される清談だが、

政治などの俗世にまみれず、

自然の中で哲学談義に花を咲かせるというものである。

 

清談は一時衰退するが、

しかし連綿と、当代随一の教養人たちに受け継がれていった。

魏、西晋、東晋、その後には、

南朝へと受け継がれる。

 

南朝における三つ目の王朝である、

梁しかりである。

 

梁は南朝の文化が最盛期を迎えたときである。

昭明太子の父、梁の武帝により創出された。

 

この時代の代表的な成果が

「文選」である。

 

●中華文明の大元は江南・南朝にある。

 

最盛期を迎えたからには、

衰退する。

 

梁の武帝治世の後半、

北から侯景という人物が流れてきて、

梁は一度滅亡させられた。

 

これにより、

南朝の文化は破壊される。

しかしながら、文化様式というのは

貴族から庶民までに浸透するものなので、

後々まで受け継がれることになる。

 

南北朝は、

のちに北方異民族由来の

北朝が、中華統一を成し遂げる。

 

北方異民族由来の隋唐は、

南朝の文化に憧れるも、

南朝文化を担う漢人たちの、

強い差別意識が融合を妨げた。

 

例えば、

隋の煬帝が憧れたのは、

この南朝の文化である。

そもそも中華と言える、漢や魏の文化を受け継いでいるのは、

この南朝であるといってもいい。

 

北方異民族は弱肉強食、

南朝の漢族文化の本来の原点は清談。

 

中華王朝は、

上記の両極に左右揺れながら、

興亡を繰り返す。

 

政治は北方由来、

経済・文化は南方由来か。

 

なお、ここで言いたいのはどちらがいい、悪いではない。

 

現代日本はどうであろうか。

中国と同様に、

二つの極に揺れるが、

どちらかというと南方由来の側面が強いのではないか。

 

そう考えると、

「令和」という元号が、

万葉集、文選に由来するというのは深い意味があると

私は感じる。

 

●結論:元号「令話」の由来は、ふた通り。

 

結論としてであるが、

元号「令和」は、

万葉集に依拠することで日本由来と主張できる。

これは対中国への姿勢であろう。

しかしながら、

元号はすべて漢籍由来だったのに、という

私のような歴史好きに対しては、

実は文選の帰田賦由来であるとも言える。

 

政治的、歴史的、そして伝統、

三点に配慮した元号と言える。