- ●蜀漢劉備が体現する「漢王朝永続論」
- ●東晋で復活する「修正漢王朝永続論」
- ●五胡の君主は実力主義の体現者曹操が好き。
- ●北宋と南宋、立ち位置の違い。
- ●明の歴史解釈変更。
- ●明が劉備を支持する理由。
表題の通り、
結論として、
劉備こそが漢王朝は永続すべきという思想の象徴である。
●蜀漢劉備が体現する「漢王朝永続論」
曹操・曹丕が、漢王朝を滅亡させるまで、
漢の皇帝というのは永続するもの、不変的なものであった。
王粲が曹操を称える詩の中で、
曹操を周公旦になぞらえたのはその表れである。
周の幼い成王を抱えて、周を支えた周公旦のように、
曹操も後漢王朝を支えて欲しい。
このような思いが、後漢末には一般的であった。
しかし、曹操・曹丕の結論は、禅譲であった。
皇帝は劉氏が永続するものという魅力的なストーリーを、
曹操・曹丕は破壊した。
非常に現実的な実力主義の権化に
中華皇帝という存在を変えてしまったのである。
一方で、
劉備は、
曹丕による禅譲を簒奪とみなし、
漢王朝は永続する、献帝は曹丕に殺されたはずだ、として
漢王朝を受け継ぐ。
この劉備の主張こそ、漢王朝永続論である。
●東晋で復活する「修正漢王朝永続論」
だがこれも、
劉備の子、劉禅の代で蜀漢が滅びることで、
一旦終わる。
匈奴の劉淵が五胡十六国時代に建国した漢は
さらに劉備・劉禅を受け継ぐものだが、
これも一過性のものに過ぎない。
●桓温の台頭が漢王朝永続論を復活させる。
本格的に復活するのは、
東晋で桓温が台頭する時期である。
台頭する桓温の実力主義的な香りを、
皇帝を取り巻く、貴族名族たちが曹操の実力主義と
重ねて認識。
これを
漢晋春秋で簡単に言えば、
弾圧する。
本来、魏から禅譲を受けて西晋・東晋は皇帝となっているのに、
それを否定して、
劉備・劉禅の蜀漢を受け継ぐとしたのである。
このように、
歴史というのは時の権力者によって、
コロコロ解釈が変わるものである。
禅譲を成功させた後継王朝、
この場合は東晋としては、
今度は東晋という王朝が誰かに
禅譲をするというリスクが発生する。
それが、
曹操・曹丕の禅譲という手法である。
しかし当然であるが、
現王朝としてはそれを否定したい。
自分たちが永続的に続くとしたい。
そうなると、
結局漢王朝のときのように、
漢の皇帝が永続的に続くように自分たちも
続くのだという
ロジックを
全面に押し出したくなる。
これにより、
劉備・劉禅らの蜀漢は、
100年以上の時を経て、政治の表舞台に立つ。
●五胡の君主は実力主義の体現者曹操が好き。
一方で、
五胡十六国時代にあらわれる、
異民族の君主たちは、
曹操でありたいと思っている。
それも当然である。
異民族の君主たちは、実力で皇帝・天王となったのである。
さらに異民族の風習は常に弱肉強食で、
曹操の主張する実力主義は受け入れやすいのである。
中華の歴史というのは、
漢民族と異民族の対立の歴史とも言える。
こうした経緯で、
それぞれの陣営に
劉備と曹操という存在が象徴として
崇め奉られるという構図になる。
●北宋と南宋、立ち位置の違い。
時代は下って、
北宋と南宋は、
この曹操・劉備のイデオロギー対立において、
それぞれ異なる立場をとる。
北宋と南宋は本来、宋王朝という同じ王朝であるにも
かかわらず、である。
北宋は曹操を評価したが、
南に逃げて南宋になったら劉備を評価した。
それは、
北宋は実力主義で皇帝となったのであり、
さらに曹操の本拠地鄴の側に帝都開封があった。
曹操の魏に自らをなぞらえやすかった。
しかし、
女真族という異民族の金の侵攻により、
北宋は南に追いやられる。
歴史的には南宋と呼ばれる。
これはかつての東晋と同じような存在である。
異民族に追い払われ、南に逃げるも、
長江という天嶮に守られて命脈を保つ。
南宋は唯一無二の帝国である。
異民族女真族の実力主義的なやり方は、
認められない。
こうなると、漢王朝永続論という思想を主張するしかなくなる。
劉備を評価するしかなくなる。
●明の歴史解釈変更。
この、思想上の、劉備と曹操の対立。
これが最もわかりやすい形で、
世に出たのが、三国志演義である。
三国志演義は明の羅漢中が書いた。
三国志演義は、
劉備が主役である。
正史三国志は、
西晋の時代に、西晋に仕える旧蜀漢の官僚、陳寿が
編纂した。
当然、結論は西晋を称えるものであり、
西晋が受け継いだ魏を中心とした書物である。
それを明は自分たちの正当性主張のため、
思想転換したのである。歴史解釈の変更を行った。
改変である。
●明が劉備を支持する理由。
それは
明が江南から興った漢民族の王朝であるからだ。
元という異民族モンゴルを追い払って、
中華の地を取り戻した王朝だからである。
曹操のような実力主義ではなく、
劉備のようにあるべしと明は主張したいのだ。
実は、
勢力図としても、
明は、東晋や南宋と似ている。
元は北に去ったとはいえ、
漠北のモンゴル高原の地で、依然として高い軍事力を擁している。
ここを北と見ると、
万里の長城の南は明である。
その対立の構図は、
東晋が長江を挟んで北の異民族王朝との対立、
南宋が淮水を挟んで女真族の金と対立する構図と同じである。
河が、山に代わっただけである。
北に脅威を抱える中華王朝は
自分たちの永続性を訴えるために、
漢王朝永続論に自らをなぞらえる。
その時に、劉備という存在が
現れるのである。