歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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413年倭の五王の始まり。

劉裕の義熙土断。413年。

この同じ年に、

我が日本史において重要なことが起きる。

 

 

 413年東晋に対して、

倭が朝貢する。

 

これは劉裕の北伐の成果である。

 

劉裕は二度、北伐を行っている。

410年と417年。

それぞれ、南燕、後秦を滅ぼしている。

間に、413年西に攻めて後蜀を滅ぼしている。

これは西なので北伐としては二回。

 

そのはじめの一回目。

劉裕が山東省にあった南燕を滅ぼしたことが

非常に重要であった。

 

●倭が島伝いに山東省に来れるようになった。

 

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遣唐使のルート ウィキペディアから引用。

日本にあった倭。

倭から中国大陸に渡るには、

北九州から出て、

島伝いに朝鮮半島を北に上り、

途中で西へと進路を変えて、

山東半島に辿り着く。

 

これが最もベストなルートであった。

 

上記の地図のように、

中期・後期の遣唐使は外洋を

真西に渡るわけだが、

遭難が多かった。

鑑真が度々遭難にあった話は有名であるが、

外洋を

突っ切ったからであった。

 

本来は、

北九州から、壱岐、対馬、朝鮮半島、山東半島と

島伝い、陸地に沿って行くのが最も安全である。

今のような造船技術はなく、

海岸線を伝うのが当然の時代であった。

 

西晋が破綻したのち、

華北は異民族が支配していた。

山東半島も同様であった。

倭が辿り着ける山東半島が

異民族支配下にある限り、

中華王朝に接続できないでいた。

 

それが、

410年劉裕の第一次北伐で南燕を滅ぼし、

山東半島を奪取。

3年後の413年、倭の朝貢となった。

 

禅譲を狙う劉裕にとって

倭という異民族が朝貢に来るというのは

非常に大きな意味がある。

 

異民族がはるばる来るというのは、

時の権力者の徳を慕ってきたという考え方をする。

 

三国時代の魏において、

曹真が西域の朝貢に成功したのは権威の向上に寄与した。

これに対抗する形で、

司馬懿は遼東の公孫淵を滅ぼして、

やはり倭の卑弥呼の朝貢を達成。権威の向上にやはり寄与する。

 

 

 

 

●劉裕北伐・禅譲と、倭の五王の不思議な関係。

 

当時の東晋の徳を慕って、

夷狄が朝貢してきたということである。

 

これをもたらしたのは、

南燕の北伐を成功させた、

劉裕の功績であった。

 

上記のように、

魏の曹叡のような強い皇帝のもとであれば、

曹真、司馬懿が夷狄を朝貢させても、

ただ皇帝の威徳が強まるのみ。

だが、

劉裕の時代は、

東晋皇帝は事実上有名無実の存在であった。

 

これはすなわち、

劉裕の禅譲への道が開かれるきっかけとなった。

 

劉裕の北伐が、

日本史における倭の五王を現代まで歴史に残したが、

劉裕にとっては、

倭の五王のおかげで、

禅譲への道を切り開くことができたと言える。

 

一方、

倭の五王からすれば、

国内をまとめたとも言えるが、

一方で、

東晋との国交を開くことで、

倭の五王たちの権威づけができたと言える。

 

この倭の五王がのちの天皇家である。

 

明確に、

天皇の存在が確認されているのは、

この倭の五王(最後の王が雄略天皇。)

であるから、

この東晋との国交は、

倭にとっても非常に重要な意味を持った。

 

 

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