歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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15歳にして後を継いだ北魏太武帝は決して若くはない。

北魏太武帝。 

 

北魏といえば、

この皇帝が華北を統一し、

孝文帝の時に漢化、

その後内部分裂をして崩壊した、

というのが最も知られたストーリーで、

簡潔な説明だと私は思う。

 

しかしながら、

太武帝自身の能力はもちろんありながらも、

北魏としての基礎は、

祖父道武帝拓跋珪により確立されていた。

 

●北魏、道武帝・明元帝・太武帝三代にわたる華北取り

 

太武帝自身は祖父や父明元帝の英傑としての

才能を色濃く受け継ぎながらも、

北魏としての対外情勢は、

祖父、父により地ならしされていた。

 

祖父道武帝拓跋珪は、

華北の異民族ライバルを軒並み駆逐していた。

父明元帝は志半ばであったものの、

南朝の劉宋との戦いにより、

黄河線は完全確保。

南からの脅威を排除することに成功。

父の急死

(423年に31歳で死去。私はこの急死も錬丹術によるものと疑っている。)

により、

15歳で北魏皇帝となった太武帝の前には、

大した敵は残っていなかった。

北魏の皇帝は若くして後を継ぐ事が多い。

さらに早死にする皇帝も多い。

 

これは南朝の皇帝がよく狂う事が多いことと相まって、

考えると、

東晋の末に開発された、錬丹術の影響が多いと

私は考えている。

 

これは別項で述べたいと思うが、

太武帝は祖父、父の早死にで、

この錬丹術という最新の高度医療が怪しいと気づいていたのではないかと

私は考えている。

 

彼の最後は宦官に殺されるが早死にではない。

 

●太武帝の15歳が「若い」は中華視点。

 

○さて、

太武帝は15歳で皇帝となったわけだが、

これを若いと見るのかどうか。

北魏の皇帝たちは

父が早死にするのでどうしても若くして後を継ぐ。

 

しかし結論として、

これは若くはない。妥当と見ることもできる。

私も初めは若いな、と感じた。

しかしそれは中華視点からの感じ方である。

 

●中華視点の成人20歳は勉強のため。

 

そもそも、中華における、

儒教の考えで貴族は20歳で成人する。

諸々の都合で18歳になったりするが、

儒教上は20歳だ。

 

九品官人法により、家格により、

極官(最高でここまでの官位まで出世できるということ)が

事実上決まってからは、

成人して初めての官職はどの位になるかも決まっていた。

 

それに備えて漢籍を勉強するのである。

漢籍を知らないと行政ができないからである。

 

例えば上長からの諮問に対しては、

漢籍にある慣例を引っ張って回答するので、

知らないと仕事にならない。

 

もちろん貴族なので知らなくても、

立場が成り立つ人物も当然いるが。

 

漢籍の勉強というのは事実上の丸暗記である。

特に古代漢語には文法もなく、(岡田英弘氏の説)

古代漢語の言葉の用法に則って、

文章を作る。

 

理屈ではなく、まずは丸暗記なのだ。

 

少々この流れで行くと語弊があるが、

我々の感覚からすると、

これは受験勉強に近い。

 

20歳に至るまで、

ひたすら漢籍の受験勉強をするのである。

暗唱などをして、覚える。

これがパーフェクトにできると、尊敬される。

 

そうした歴史的エピソードは

よく出てくる。

 

この視点からすれば、

15歳での皇帝即位は間違いなく若い。

特に時系列で見ると、

例えば後漢の皇帝は三代皇帝章帝の後は、まともな年齢で

即位できず、外戚・宦官の専横を招いたという

明白な歴史があるので、どうしても皇帝が若いとよくないと考えてしまう。

 

●異民族の成人はやんちゃ盛りの15歳。

 

しかし北魏は異民族王朝である。

 

初代皇帝道武帝拓跋珪により、

北方に軸足を置き、軍事力を含む強い皇帝集権を持つ国である。

 

制度上、皇帝は国全体の兵の総指揮官であり、

行政よりも軍事に重きを置いた軍事国家である。

 

文よりも武に重きを置く。

 

その際、何をもって皇帝に相応しいと考えるか。

騎馬を操り、集団で戦いができること。

それに耐えうる健康な肉体を持つこと。

である。

 

北方異民族は子供の頃から

馬に親しむ。

 

馬とともに遊んで狩りをして生活を営む力を身につける。

 

仲間とともに

獣を追いかけ、狩猟をする。

 

この力を身につけ、

人間とも戦う知恵を体得する。

 

それにふさわしいのは20歳を待つ必要はない。

 

●日本の元服(戦国時代)は大体15歳まで

 

よくよく考えてみれば、

日本において、戦国時代の元服は、

大体13歳から15歳である。

例えば、織田信長は

12歳で元服している。

1534年生まれ、1546年に元服。

※なお、数え年ではこれは13歳。

 

しかし現代の感覚では12歳。

私は定義をしたいのではなく、歴史を限りなく

体感したいので、今の感覚で年齢を捉えている。

 

織田信長は翌1546年に13歳で初陣。

馬に乗って、人を一人は殺めたであろう。

 

別段これは若いとは言われない。

馬に乗ることもでき、実戦にも参加できるのだから、

良いということになる。

さらに君主一家として、特に後継者として重要なのは、

生殖能力だと私は思う。

男性の13歳であれば、

生殖能力は十分にあるので、

元服に相応しいとなるのは私は当然だと思う。

 

織田信長は1548年ごろ、

すなわち14歳で斎藤道三の娘、濃姫を

娶る。


ということで、

15歳で北魏皇帝となった太武帝は決して若くして

継いだとは、言えない。

 

中華の視点で見過ぎ、ということになる。

むしろ、太武帝は結果として英主だったのだから、

父という重しがいない方が思う存分、

その能力を発揮できたとも言える。