歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

両統迭立は誰のせいか。

両統迭立は誰のせいか。

 

後鳥羽上皇か、

後嵯峨天皇か、

亀山天皇か、

それとも鎌倉幕府か。

 

 

 

 

 

●後嵯峨天皇は後堀河天皇および四条天皇の血統が絶えたことにより即位できた天皇である。

 

承久の乱の結果、

後鳥羽の血統は全て皇位から排除された。

幕府としては当然である。

 

結果、後白河法皇の孫で、

後鳥羽院の同母兄である、

守貞親王の子が後堀河天皇となった。

 

その子、四条天皇は若くして崩御。

そのため、後継の天皇は、

後鳥羽院の血統から選ぶしかなくなる。

承久の乱の時に中立だった、

後鳥羽院の子、土御門天皇の子が選ばれた。

 

これが後嵯峨天皇である。

 

●後嵯峨天皇、即位後四年で譲位。

 

これは自身の血統が皇統を継ぐことを

確定させるものである。

 

元々、後嵯峨天皇は即位前、

忘れ去られていた存在だった。

 

承久の乱の結果、父、土御門天皇は土佐へ配流。

子である、のちの後嵯峨天皇は母方の叔父である土御門家で

養育される。当然臣下筋である土御門家で養育されるなど、

皇族ではないのとほぼ同じこと。さらに

この土御門家ものちに没落。

世間から忘れ去られる。

 

天皇の血筋とはいえ、

皇統嫡流から外れるとこんなものである。

これは、から恐ろしいということは覚えておきたい。

 

 

 

そこに来ての、即位である。

 

偶然な幸運。

後嵯峨天皇は正統性に欠ける自身の即位を

認識。そのため、自身の血統こそが

皇統を継ぐことを確定するには、

早々に自身の子に譲位して、

治天の君として君臨する必要がある。

 

●後深草天皇と亀山天皇は同母兄弟である。

 

母の家柄は重視されるが、

決して長子相続前提ではない。

 

結局のところ、

後嵯峨は、年長の後深草よりも年少の亀山が

可愛かったのだろう。

父後嵯峨は、治天の君として、

年長の後深草に年少の亀山への譲位を命令。

 

さらに、その後、

後嵯峨は亀山の皇太子に、

亀山の子、のちの後宇多を立てる。

 

これは、亀山の血統が皇統を継ぐと宣言しているのと

事実上の同義である。

 

しかし、後堀河や後嵯峨自身が

天皇になるにあたり、

鎌倉幕府の意思が最終決定となったので、

後嵯峨は明言を避けた。

 

なぜなら、

後嵯峨の目的は、

自身の血統が皇統を継ぐ事、

それは可愛い亀山の血統である、

この二つである。

下手に亀山が後継だと

表明する事で変に幕府に勘ぐられたくない、

というわけだ。

反幕府など痛くもない腹を探られたくない、

というわけだ。

 

後嵯峨からすれば、

父土御門天皇、祖父後鳥羽上皇のような

流罪という惨めな境遇には

確実になりたくなかった。

 

自身の幼少期に

世間から忘れ去られたという

辛い思いをしている。

 

後嵯峨は、

自身の決裁範囲である、

自己所有の荘園の相続を事細かに、

遺言しながら、

誰が、治天の君、

すなわち天皇家の家督を継いで、

誰の血統が皇統を継ぐのかは、

幕府に委ねるとして崩御した。

 

●両統迭立の流れ:8ステージ

 

①後深草⦅後深草の血統=持明院統⦆、

 

↓後嵯峨天皇の勅令

 

②亀山、後宇多⦅亀山の血統=大覚寺統。亀山と後宇多は親子⦆、

 

↓後深草上皇が幕府に自身の立場を訴え、

   自身の血統に皇統を戻す。さらに伏見天皇の子で、

   のちの後伏見天皇を皇太子にすることを幕府に認めさせる。

   1285年の霜月騒動で、排撃された安達泰盛と、

   亀山上皇が懇意にしていたことを警戒したことが大きい。

 

③伏見天皇、後伏見天皇⦅持明院統。伏見と後伏見は親子⦆、

 

↓伏見天皇の革新的な政治(といっても有為の人材を採用したなどだが)に

   反発した旧来からの公家。この公家が幕府と接近、

   後伏見の皇太子は

   大覚寺統の邦治親王(くにをおさめる、という意味。のちの後二条天皇)

   となる。

※元々、親王の諱(実名)は「仁」の字が付いたが、

両統に分かれると、持明院統はそのまま「仁」を使い、

大覚寺統は「仁」を使わなくなった。

後醍醐世代は「治」、後村上世代は「良」を使う。

中国の字のルールに近い。西晋司馬氏もこのような世代で、

字の一字に同じ文字を使う。

 

 

④後二条天皇⦅大覚寺統。後宇多の子⦆、

 

↓後二条天皇、24歳にて若死。皇太子でのちの花園天皇が即位。

 

⑤花園天皇⦅持明院統。伏見の子で後伏見の弟⦆、

 

↓今度は、大覚寺の後宇多が、

   のちの後醍醐天皇への譲位を幕府へ訴え。

   あわせて、後醍醐天皇即位ののちの皇太子は、

   後二条の子、邦良親王としたいと主張。

   ◾︎後宇多の目的は一つ。

   ・後宇多自身の血統に皇統を持っていきたい。

   この意味は二つある。

   持明院統に対抗という意味、および大覚寺統内部における後宇多系の嫡流確定。

   

   後宇多としては、自身の兄弟である恒明親王へ皇統がいくことを

   ブロックする必要があった。

   後宇多、後二条系が、皇統嫡流とすることを明確にしたい。

   しかし当時9歳だった邦良親王を天皇にすると、

   万が一後二条のように若死にするので、

   まずは成年に達した尊治親王、のちの後醍醐天皇を即位させる。

 

 

⑥後醍醐天皇⦅大覚寺統。後宇多の子で後二条の弟⦆、

 

↓後宇多系が大覚寺統の嫡流確定はできたのだろうが、

   そのための人身御供にされた「中継ぎ」天皇後醍醐は、

   父後宇多と同じ悩みを抱えることになる。

   その悩みは、父後宇多よりも深く、

   ・後宇多の命令により、後醍醐の血統は皇統になれない。

      甥邦良親王元服の際には譲位する必要がある。

      大覚寺統の天皇は結構なエゴイストで、後醍醐も多分に洩れなかった。

      後醍醐の血統が嫡流になれない。

      それは後宇多の意向を鎌倉幕府が承認したからだ、

      として、後醍醐の鎌倉幕府打倒活動が始まる。

 

⑦邦良親王⦅大覚寺統。後二条の子。後醍醐の甥⦆は後醍醐の皇太子。

だが、天皇になることはなかった。

 

⑧量仁親王⦅持明院統。後伏見の子。花園の甥⦆。

 

 

のちの光厳天皇。

後醍醐天皇が反鎌倉幕府に失敗し、

後鳥羽上皇と同様に隠岐に流された後の天皇。

 

◼︎皇統争いに巻き込まれた、受け身の鎌倉幕府

 

後鳥羽上皇という

非常に強い治天の君がいた。

 

しかし、

軍事的実力のある鎌倉幕府と対立し、

承久の乱で身の破滅を招いた。

 

その後、

鎌倉幕府は、

親鎌倉系の天皇(後堀河天皇・四条天皇)を

立てるもその血統が絶える。

 

やむなく、

後鳥羽上皇の血統でありながらも、

承久の乱で中立的立場であった

後嵯峨天皇を擁立。

 

天皇になるまで、

ただの人であった可能性が高い

後嵯峨天皇は自身を守るため、

早々に譲位して自身の血統を守る。

 

しかしそこに子への情愛も生まれ、

亀山天皇に肩入れする。

 

後嵯峨天皇の本心は

亀山天皇系を嫡流にすることだっただろうが、

幕府が怖い後嵯峨天皇は

最終決定を幕府に投げて崩御。

 

父後嵯峨天皇の崩御後、

子で亀山天皇の同母兄、後深草天皇が巻き返す。

 

鎌倉幕府も、

後鳥羽上皇以来、

朝廷との良好な関係を持つことに

深い悩みを持っていたので、

だったら親鎌倉幕府になりそうな、

後深草天皇系を支持。

 

しかし、

親鎌倉幕府出ないならば亀山天皇系でもいい。

これが鎌倉幕府の本音である。

 

89代後嵯峨天皇のあと、

96代後醍醐天皇に至るまで、

 

7人の天皇がいるが、

誰も、この両統迭立に納得しなかった。

 

その不満が爆発するのが後醍醐天皇である。

その矛先は鎌倉幕府。

 

しかし、

それは筋の通った矛先だっただろうか。

 

そもそも、

鎌倉幕府というのは、

事実上の軍閥に近い。

軍閥が東国に自治権を持っている。

 

これがグローバル基準で見たときの、

鎌倉幕府の位置付けだ。

 

しかしながら、

この軍閥・鎌倉幕府は、

天皇の皇統まで着手したくてしたわけではなかった。

 

承久の乱も、

後鳥羽上皇が仕掛けてきた戦いであり、

事実上の自滅である。

 

鎌倉幕府といっても、

一枚岩ではなく、

内部抗争は非常に激しい。

 

東国という世界で動いている。

 

正直、西国は天皇の荘園も多く、

別世界である。

 

天皇は

鎌倉幕府という存在、

すなわち、軍事権の委任、東国の自治権、

を認めて、支持してくれれば誰でもよかった。

 

これが本音。

 

鎌倉幕府はそれどころじゃなかった。

ちょうど元寇が重なっていたのだから。