歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

北魏太武帝の華北統一戦。

北魏太武帝。

423年に15歳にして皇位を継ぐ。

  

この時点の北魏の状況だが、 

道武帝により北魏の基礎は固まり、

明元帝により華北における北魏の優位性は

すでに確固たるものとなる。

 

 

 

 

明元帝は劉宋との戦いの最中崩御したが、

太武帝は劉宋との戦いには深入りせず、

まずは華北を固めることに注力した。

 

厄介なのは北方の柔然、西方の赫連勃勃である。

 

●最も厄介な柔然撃退。

 

423年に太武帝が即位してまず手がけたのは、

モンゴル高原の柔然討伐であった。

 

もともと、モンゴル高原は、

北魏拓跋氏もその一つである鮮卑族の勢力下であった。

しかし、北魏、また前燕・後燕の慕容氏が、

南下して中華に進出すると、モンゴル高原において

柔然が力を持つ。

 

太武帝の祖父、道武帝拓跋珪、

父明元帝は柔然討伐を試みるも、屈服させることはできなかった。

 

●北魏が柔然に苦しんだ理由。

 

理由は簡単で2つある。

1つ目は、柔然と北魏は戦いの優位性が同じである。

騎兵主体で機動性と誘い込みで撃破する。

この優位性が同じなので勝敗をつけにくい。

むしろ中華勢力圏に踏み込む北魏は潜在的に漢化しつつあるので、

柔然の方が優位性が高いとも言える。

 

2つ目は、

柔然は人口が少ない割に、モンゴル高原を闊歩する。

なので、決定打を与えにくい。

 

そんな気ままな柔然は北魏が中華に進もうとすると、

後ろを突いてくる、厄介な存在であった。

これを退治しないと、華北制圧に集中ができない。

 

北魏が華北に支配圏を広げると、

柔然はその隙をついて、

モンゴル高原に勢力を広げる。

 

合わせて、北魏が中華に進出するにあたっての

後背地である北方との境界線を柔然が荒らしてくる。

 

このように非常に厄介な存在だった。

 

道武帝拓跋珪の時に、

柔然はただの一部族にすぎなかったが、

その死の間際には、柔然はモンゴル高原全体に勢力を伸ばしていた。

 

 

これを太武帝は、即位してすぐに討伐。

あしかけ5年かけて、

柔然を討伐、屈服させる。

 

 

●因縁の赫連勃勃

 

柔然に対する優勢がある程度見えた

425年。太武帝にとってラッキーなことに、

夏の英主赫連勃勃が425年に死去する。

 

夏は関中とオルドスを支配する。 

 

赫連勃勃は北魏との因縁があり、

お互いに宿敵としか言いようのない関係であった。

 

赫連勃勃の父、劉衛辰は、

北魏の祖先、拓跋什翼犍の娘を娶って力をつけた。

もともと、劉衛辰、赫連勃勃は匈奴の一族(鉄佛部)であったが、

当時は没落していた。

 

拓跋什翼犍としても、

北方異民族の名族、匈奴鉄佛部と結びつくのはメリットがあったのだろう。

 

しかし、劉衛辰はこれを恩とは感じず、

関中にあった前秦苻堅に2度裏切る。

一度は拓跋什翼犍に許されるが、

二度目の裏切りは

拓跋什翼犍率いる代(これがのちの北魏)が滅亡する

きっかけとなった。

 

拓跋氏の生き残り、

拓跋珪は劉衛辰と同じ匈奴の独孤部劉庫仁に庇護される。

 

劉庫仁は前秦において劉衛辰のライバルで、

劉庫仁としては、劉衛辰を宿敵とする拓跋珪を

匿うことは利用価値があるとかんがえたのだろう。

 

のちに苻堅が383年淝水の戦いで大敗すると、

拓跋珪が自立して代、すぐに国号を変更し魏(北魏)を建国。

 

地盤を固めると、

391年に拓跋珪は劉衛辰を滅ぼす。

その劉衛辰の子である、赫連勃勃(当時は劉勃勃)は、

関中にあった後秦に亡命するという流れになる。

 

407年後秦が事実上北魏に臣従すると、

これに赫連勃勃は反発して独立。

オルドスを地盤として夏を建国。

 

赫連勃勃が死ぬ425年までオルドスから関中まで

勢威を伸ばしていた。

 

上記の経緯から北魏も赫連勃勃も互いに、

許されざる関係であり、互いに強い勢力を持つこともあって、

互いに目障りな存在であった。

 

425年の赫連勃勃の死を好機と見た、

北魏太武帝は、426年から夏を攻撃、

長安および本拠統万を落として、

足掛け5年かけて、431年に夏を完全滅亡させる。

 

北魏はこれにより、

関中という華北主要エリアを押さえる。

またオルドスを押さえることで、

北魏の本拠平城の国防上の安全を確保。

 

また、北魏を一度は滅ぼしたきっかけを作った

夏を滅ぼしたことで。

若年の太武帝の権威を大いに高めることとなった。

 

非常に大きな意義のある勝利となった。

 

●鮮卑のライバル慕容氏残党の制圧。

 

436年に遼東の北燕を滅ぼす。

北燕は当時馮氏の王朝であったが、

慕容氏の前燕・後燕の流れを継ぐ王朝であった。

 

北燕は、鮮卑慕容氏の残党であり、

北魏鮮卑拓跋氏のライバルの残党と言える。

 

北魏太武帝はそんなことどうでもよかったであろうが、

こうして後世から歴史を見ると、

これも五胡の覇権争いのひとつの結末である。

 

ここに北魏拓跋氏が、前燕・後燕の慕容氏に完全勝利する。

395年に拓跋珪が後燕を衰退させた参合陂の戦いから41年後のことである。

 

439年に涼州の武威による、

北涼を滅ぼす。

 

これは五胡十六国時代の始まりに漢人王朝の涼という

国があったが、この流れを継ぐものである。

 

これを滅ぼして、

北魏は華北統一を成し遂げた。