歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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足利持氏 足利成氏 南北朝から室町時代における関東の争乱

●関東の争乱は中央•室町幕府との対立から。

 

鎌倉公方足利持氏
将軍足利義持の猶子。

元々、鎌倉公方は
将軍家から離反の動き。
それに鎌倉幕府以来の
関東武士たちの独立心が結びつく。

関東管領を代々務める総上杉家は、
足利将軍家の母方の実家であることもあり、
将軍家の代官的存在として、
関東、鎌倉において、将軍の権益を代表。

関東武士の支持を集める鎌倉公方、
および足利将軍家の事実上の代官として
鎌倉公方を抑制する立場の関東管領上杉家。

この大きな対立軸が、
室町時代の関東大乱を生む。

それが勃発するのが
初代鎌倉公方足利基氏(尊氏の子)
の曾孫足利持氏の代である。

最初の事件が、
1416年の上杉禅秀の乱である。

鎌倉公方足利持氏が、
将軍家からの自立を志向する。
しかしながら、
関東管領である犬懸上杉家の上杉禅秀(氏憲)
が婚姻政策などで力を握っており、
思い通りにならない。

足利持氏としては、
上杉禅秀が煙たくなる。

1415年に上杉禅秀は関東管領職を辞任。
理由は足利持氏が、禅秀の家臣が不出社により、
禅秀の領地を没収したためであった。

翌1416年に、上杉禅秀は関東の諸勢力を糾合して反乱する。
妻の実家武田氏、娘の婚姻先、千葉氏・岩松氏・那須氏、
それ以外に小田氏、宇都宮氏などが加担した大規模な反乱であった。

しかし、
足利将軍家は鎌倉公方を救援し、
孤立して、1417年に自刃して果てる。

1419年に
上杉憲実が
越後上杉家から山内上杉家に養子に入り、
関東管領職を継ぐ。年齢10歳とされる。

この上杉憲実は、  
足利将軍家協調派であり、
主張ができる年齢になると、足利持氏と対立関係に入る。

足利持氏としては、
鎌倉時代においては、
事実上の独立勢力として自立していた鎌倉幕府のように、
自立した存在として権力を振るいたい。
一方、京都の足利将軍家としては、
すでに対立する南朝を屈服させた今となっては、
鎌倉を完全に手元に掌握したい。

この両者が対立するのは当然と言える。

1428年には足利義持が死去、
くじ引きで足利義教が跡を継ぐが、
鎌倉公方足利持氏はこれに不満を持つ。
理由としては、
足利持氏は足利義持の猶子になっており、
出家していた足利義教よりも自身の方が後を継ぐ権利があるというものであった。

このタイミングで、
足利持氏は足利将軍家と決裂する。

それでも上杉憲実は
将軍家との協調を目指すも、
足利持氏に遠ざけられる。

最終的に、1437年に上杉憲実は関東管領職を辞任。
翌1438年、足利持氏が嫡男の元服時に、
足利義久としたことに反発。

この意味合いだが、
鎌倉公方は、将軍家当主から一文字を貰い受け名乗るのが慣例となっていた。
「義」は、源氏当主の通字であり、当然源氏当主の足利将軍家に対する
反逆行為とみられてもやむを得ないこと。
さらに、この義久に足利持氏は八幡太郎を名乗らせた。
八幡太郎は、源氏中興の祖源義家の通称である。

これに反発したか、呆れたか、
上杉憲実は、
領国の上野国平井城に下向。

足利持氏としては、
この上杉憲実の行為を反逆行為とみなし、
討伐の軍をあげる。

これが1438年から1439年に渡る永享の乱である。

足利持氏は上杉憲実討伐の軍をあげる。
上杉憲実は武蔵府中で陣を構え、
足利将軍家の足利義教に救援を要請。

当然足利義教としては
上杉憲実を支援するわけで、
駿河今川、信濃小笠原、越前斯波、および上杉禅秀の遺児を含めた
幕府軍の派遣も実施。
足利持氏は劣勢となる。

劣勢となった
足利持氏は鎌倉称名寺において出家し恭順の姿勢を見せる。
上杉憲実は足利義教に足利持氏の助命を嘆願するも、
許されず、結局上杉憲実は軍を差し向け、
足利持氏を殺害する。

上杉憲実はこの行為が本意ではなかったようで、
自身および息子たちも道連れに出家する。

足利義教としてはこれを好機と見て、
実子を関東に下向させて、鎌倉公方を継がせようとすると、
下総の結城氏が足利持氏の遺児、春王丸・安王丸を擁して、反乱。

1440年に勃発、1441年に鎮圧される結城合戦である。

結城氏朝・結城持朝父子は10ヶ月耐えるも、
衆寡敵せず、最後は討ち死にする。

春王丸と安王丸は囚われ、美濃にて処刑される。
もう一人の遺児、永寿王丸は京都に送られるも、
嘉吉の乱で足利義教が横死し、難を逃れる。
(関東で匿われていたという説もある。)
京都に着くも処分が下されなかったということだ。

赤松満祐が結城合戦戦勝祝いとして足利義教を招いて
宴会を開くが、そこで義教は暗殺された。

上記のように、諸説あるが、
いずれにせよ1449年までには、
この永寿王丸、元服して
足利成氏は鎌倉公方となっている。

この鎌倉府における関東管領は、
上杉憲実の嫡男上杉憲忠が就任する。

上杉憲実およびその子息は、
上杉憲実の意向により出家するはずだったが、
上杉憲忠は家宰の長尾景仲の嘆願により思いとどまり、
結局山内上杉家を継いだ。1447年のこととされる。
この時、父の上杉憲実は上杉憲忠を義絶している。

この鎌倉府復興は、
足利義教横死を受けて、
関東武士たちの長年の復興運動の成果である。

そのために、
旧持氏派、および反持氏派が共存する形での復興となる。

足利成氏としては、
上杉憲実が父殺害を逡巡した経緯を正しく認識していたかは
わからない。
多分に近臣たちは当然、父持氏を実際に殺した上杉憲実および
上杉憲忠ら子供達を良くいうことはない。

この緊張感からか、
1450年江の島合戦が起きる。
山内上杉家家宰の長尾景仲、
扇谷上杉家家宰の太田資清が
足利成氏を襲撃する。
足利成氏は江の島に避難、旧持氏派の千葉、小田、宇都宮の諸氏の
活躍もあり、長尾・太田を退ける。

足利成氏としては、
上杉憲忠との協調を志向。
長尾・太田のみの処分を、
室町幕府管領畠山持国に要請するも、
持国は上杉憲忠の鎌倉府帰参指示は行なったが、
長尾・太田の処分は曖昧にした。

このように、
室町幕府としては鎌倉府に関しては宥和姿勢であったが、
1452年に管領が
細川勝元になると方針が転換される。
関東管領を通じて、室町幕府は鎌倉府、鎌倉公方をコントロールしようとする。
関東管領の取次がない書状は受け付けないとした。
鎌倉公方は関東管領を通さないと室町幕府と対話ができないこととなり、
関東管領の意向を気にしなければいけないわけである。
臣下筋の関東管領に気を使うなど、鎌倉公方としては面倒この上ない。

こうした経緯があって、
互いの近臣のみの対立だったのが、
鎌倉公方と関東管領自体の対立へと変化し、
1454年足利成氏は関東管領上杉憲忠を御所に呼び寄せ謀殺した。

これをきっかけに
28年におよぶ享徳の乱が勃発する。

ここで一旦まとめる。


足方持氏に反発した元関東管領上杉禅秀(犬懸上杉家)が乱を起こす。
(1416年の上杉禅秀の乱。)


鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実(山内上杉家)が対立、上杉憲実が勝利、足利持氏を殺害する。
(1438年から1439年の永享の乱)

1454年に、
鎌倉公方足利成氏(足利持氏の子)が関東管領上杉憲忠(上杉憲実の子)を殺害。
享徳の乱が勃発する。


基本的な、対立軸は、
鎌倉公方が反幕府、関東管領上杉家が親幕府。
これに関東の諸将が合力することで、
争いが大きくなる。

京都の室町幕府がこの関東の争乱に
介入する。
上杉禅秀の乱においては、
鎌倉公方を支持したが、
後は基本的に上杉家を支援する。

但し、のちに上杉家内部で対立をするので、
幕府の支持方針もややこしくなるが。


●上杉憲顕

 

そもそも、関東管領職に就く上杉家というのは、
足利尊氏の母方の家のことである。
つまり、外戚である。

叔父の上杉憲房は、
足利尊氏が1336年に京都から西国に逃れる際、
事実上の殿として、
四条河原で北畠顕家、新田義貞と戦い、戦死する。

この後を継いだのが上杉憲房の嫡男、
上杉憲顕である。

上杉憲顕は、
足利尊氏、足利直義にとっての従兄弟に当たる。

この上杉憲顕という人物が、
紆余曲折の末に、初めて関東管領というポジションに任じられる人物となる。

少々経緯を説明すると、
室町幕府の管領という呼び名になるのは1362年のことである。
これは斯波義将が、まだ執事と呼ばれるポジションに就く際、
父の斯波高経が執事という呼称を嫌ったためである。
斯波家というのは、
本来は足利の嫡流であったという由来を持つ家で、
それが足利本家の執事では、家来筋に成り下がると考えた。
そこで、執事ではなく、天下のことを「管領」するという意味で、
呼称が変わる。
このタイミングで、元々鎌倉府の執事というポジションが、
関東管領になったとされる。

(但し、これも諸説あり、一般的に認知されている説として
上記をご認識いただきたい。)

1362年に、
鎌倉公方の足利基氏は、当時左遷されていた
上杉憲顕を鎌倉に召喚しようとしていた。
これには、兄の将軍足利義詮も同意している。

上杉憲顕は、
1350年に勃発した観応の擾乱において、
足利直義派であり、
足利直義が没してからは、足利尊氏の怒りを買い、
左遷させられていた。

しかし、足利義詮、および足利基氏の両者がそれぞれ幼年のこと、
尊氏の名代として鎌倉に駐在していた時の補佐(鎌倉府の執事)は、
上杉憲顕であった。

このころの鎌倉府の執事は、
2名体制であった。
他は、
足利本家の執事を代々務める高氏や、足利本家に継ぐ家格を持つ
斯波氏(長男で足利家を継ぐはずだったが北条得宗家が北条家の血を継ぐ弟に
家督継承をさせたため足利家に継ぐ、というよりも別格の家格となった)、
畠山氏(足利義純という人物が畠山家を継いだため)が鎌倉府の執事に就くが、
家格はあれど、義詮や基氏との血の繋がりは薄い。

その点、上杉憲顕は、
父の従兄弟であり、大叔父の上杉憲房は父を助けるために
命を賭している。

こうした経緯があるので、
足利義詮、足利基氏兄弟は、
この上杉憲顕を信じたのであろう。

上杉憲顕は観応の擾乱で、
足利直義派であった。
鎌倉に足利直義を迎え尊氏に反抗しようとしたほどの人物である。
上杉憲顕は、
上野支配だけはうまくいって、
それを足利直義から感状を受けている。
その頃からの直義との関係である。
なお、上杉憲顕自身が上野支配を成功したことで
山内上杉家の本拠は上野となる。

上杉憲顕は足利直義を奉じて関東にて決起、
これに対して、
足利尊氏は関東へ出兵、
駿河薩埵峠で苦戦の末、
尊氏勝利(薩埵山の戦い)。こののち足利直義は急死するが、
上杉憲顕は南朝方と連携して、武蔵野合戦となるも敗れる。

上杉憲顕は命は助けられるも信濃に流罪、出家する。

足利尊氏は、
この薩埵山の戦いにおいて、戦功を挙げた
畠山、宇都宮、河越の三氏を軸に関東を支配することにした。
これを薩埵山体制と呼ぶ。

鎌倉府執事に畠山国清、
上杉憲顕が守護職を持っていた、越後・上野守護を宇都宮氏綱に、
鎌倉のある相模守護を河越直重に与える。

このタイミングで、
旧上杉憲顕の守護国である上野、越後方面を牽制する意図で、
鎌倉府の機能を入間川へ移す(入間川御陣)。
入間は河越氏のお膝元でもある。
1353年のことである。

この時、鎌倉公方の足利基氏は13歳。
ようやく政治的意思を持とうとするかしないかぐらいの年齢である。

 

●関東の対立は観応の擾乱が原点

 

足利将軍家の内部対立と、
関東の諸氏族が
結びついてややこしい。


関東の対立は、観応の擾乱に原点がある。

観応の擾乱は、
結論、それまでトップとして手腕を振るうのに
腰が引けていた足利尊氏が、
弟足利直義ではまとめきれないのを見て、
実子足利義詮に後継を任せようとして起きた争乱である。

これを意図する前までは、
足利義詮は鎌倉に駐在していたが、
これを意図した尊氏は義詮を京都に召喚。
代わりに義詮の同母弟の基氏を鎌倉に下向させている。

この時の、鎌倉執事は、
高師冬と上杉憲顕。
高師冬は、観応の擾乱を仕掛けた高師直の従兄弟で猶子である。
高師冬は直義派の上杉憲顕と対立、敗死する。

上杉憲顕は鎌倉に直義を迎え入れて、
足利尊氏と戦うも敗れる。
足利直義は急死、上杉憲顕は抗するも敗れ、追放。

この経緯の中に、鎌倉公方たる足利基氏の意思はない。
父足利尊氏が差配したものである。

鎌倉および関東は、
幼年の足利基氏を尊氏の名代としながら、
畠山国清、宇都宮氏綱が実権を握る。

これは、
足利尊氏にとってやりやすい体制である。

その尊氏は1358年に死去している。

この時点で、足利基氏は18歳、
兄で将軍の足利義詮は28歳である。

上記のような経緯なので、
足利基氏には政治的実権はない。

足利義詮は尊氏を継いだとはいえ、
この尊氏が作った薩埵山体制をコントロールできる
ほどの政治力はない。

そこで、
両者の幼年期を支えた
上杉憲顕という気概のある人物に連絡を取り、
足利基氏、そして多分に足利義詮も、
この薩埵山体制を破壊することを意図する。

それが1362年のことである。

結果として、
上杉憲顕は関東管領に就任、(ここで鎌倉執事から名前が変わる)
越後と上野の守護職となる。

なお、余談ではあるが、
ここに越後が含まれていることが重要である。
越後はここで鎌倉府管轄となったと見られている。
上杉謙信が関東に出兵するのはこうした歴史的経緯も
影響を与えている。

ややこしい話だが、
足利尊氏は、畠山や宇都宮らの関東諸氏を使って関東を支配した。
尊氏の死後、
義詮や基氏は彼らをコントロールできない。
なので、義詮・基氏兄弟は彼らを
追い落として、親戚筋の上杉憲顕をいれた。

これが室町時代から戦国時代に亘るまでの、
関東の対立軸の原点である。

こうして上杉憲顕は観応の擾乱で、
尊氏に刃向かったことを事実上帳消しとされる。

足利義詮・足利基氏の親戚筋の重鎮としての地位を
確立させる。

この上杉憲顕の系統を山内上杉家と呼ぶ。

すぐ下の弟上杉憲藤の系統が、犬懸上杉家と呼ばれる。
上杉憲藤は、父上杉憲房と共に、足利尊氏を逃がすために戦死している。

この系統に上杉禅秀がいる。
山内上杉家の弟筋であるから、関東管領も輩出するのだが、
上杉禅秀の乱で没落する。

扇谷上杉家は、
上杉憲顕の父上杉憲房の兄、
上杉重顕の系統である。
上杉氏の本来の直系である。
しかし、
上杉重顕は早世したらしい。
家督は実子の上杉朝定が継いだ。

正室に、
尊氏・直義の異母兄で本来は足利本家を継ぐはずだったが、
早世した足利高義の娘を迎えている。

しかし、
この夫妻に子はなく、
また上杉朝定は病弱で、32歳にして早死にする。

養子の上杉顕定が後を継ぐ。

この人物の時に鎌倉の扇谷(おおぎがやつ)に
居住したことで、
この系統を扇谷上杉家と呼ぶ。

なお、上杉朝定には実子朝顕がいて、
この系統を八条上杉家と呼ぶ。
これが本当の上杉直系だが、そうとは見られていない。

まとめると、
本来の上杉直系八条上杉家を継ぐ形で、
扇谷上杉家が直系となる。
しかしこの扇谷上杉家も
早世や養子などで直系としての存在が薄れる。
一方山内上杉家は、将軍足利家への忠節、功績が優れ、
そのために事実上の直系となった
というものである。

関東管領職は、
上杉諸家で継ぐものの、
山内上杉家の上杉憲顕が初代ということもあり、
山内上杉家を軸に就任していくというものである。

ほかに上杉憲顕の養弟上杉重能が宅間上杉家を建てる。
重能の父は勧修寺氏であるが、母が上杉憲房の妹で、
その縁で上杉憲房の養子となる。

このように上杉家はさまざまな系統がある。

その中で、
足利尊氏の母上杉清子の長兄の系統が扇谷上杉家、
次兄の系統が山内上杉家である。

山内上杉家の上杉憲房、上杉憲顕父子が勲功著しく、
その結果、上杉家の中心となる。
また関東管領職をメインで受け継ぐ(世襲ではないが)
ことになった。