井伊氏というのは、
かなり古い氏族である。藤原北家に連なる。
大石泰史氏「井伊氏サバイバル500年」によると、
もともと遠江の「介」を長年続けていた。
「介」というのは「守」の次に位置し、次官扱いである。
例えば常陸の「守」は親王のため、人臣では、
「介」が一番になる。そのため、
常陸介は実質的に「守」扱いになる。権限は結構ある。
南北朝期は南朝方。
後醍醐天皇の皇子・宗良親王が遠江に漂着。(1337年)
それを支援したりしている。
その後遠江は今川了俊が領主となった。
しかし、大内義弘の乱の際に、今川了俊が加担した。
足利義満により、今川了俊は失脚。
遠江守護は斯波氏となった。
その後、井伊氏は遠江今川氏(了俊系)とともに、
反幕府活動を行う。
しかし戦国期には
駿河今川氏の影響下に入る。
そんな中、
井伊直虎が出てくる。
大石氏は、直虎が女性とは断定できなかった、と言っている。
寿桂尼のように、家督代行のような立場にいたなどと
諸説あるが、判断しきれなったようだ。
このあと1580年に井伊直政が家康に帰順し、
井伊氏は歴史の表舞台に立つことになる。
いずれにしろ、
井伊直政の登場は、唐突感が強い。
この後、従五位下侍従までのぼるがなぜ直政なのか。
酒井・本多・榊原などを差し置く理由がよくわからない。
男色の相手だったという話もあるが、それだけで
譜代家臣団を押しのけられるほど、この時代は甘くない。
(例:武田の高坂弾正。筆頭にはなっていない)
武田の赤備を受け継ぎ、徳川の先方は井伊家というのも、
理由はわかりにくい。
大石氏の研究により、井伊氏の登場に唐突感は薄れたが、
徳川家において、筆頭になった理由はまだ曖昧。