歴史的な書物から、中国史上の人口がわかる。
●前漢平帝 西暦2年
5959万人 1223万戸 出典「漢書・地理誌」
●光武帝崩御の年 57年
2100万人 427万戸 出典「後漢書・郡国志」
●後漢桓帝 157年
5648万人 1067万戸 出典「晋書・地理誌」
●魏元帝 263年
443万人 66万戸 出典「通典・食貨七」
●呉大帝(孫権)242年
240万人 53万戸 出典「晋書・地理誌」
●蜀後主・劉禅 蜀滅亡の年 263年
94万人 28万戸 出典「通典・食貨七」
●西晋武帝天下統一 280年
1616万人 245万戸 出典「晋書・地理志」や出典「通典・食貨七」
※漢書・・・後漢章帝の時代、班固、班昭によって編纂。
※後漢書・・・南北朝時代に南朝宋(劉宋)の范曄によって編纂。
※晋書・・・唐の648年に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂。
※通典・・・唐の杜佑の著作。法制度の沿革について著す。
当時の人口はすなわち国力。
農地を耕すのも、宮殿を作るのも、
武器を作るのも、戦争をするのも、何もかも人力だ。
だから、魏明帝・曹叡が豪奢な宮殿を作るのを
様々な臣下が諫言した。
民を疲弊させる、国力を下げる。
豪奢な宮殿を作れば、つまり農地が荒れるのだ。
荒れると、作物が取れず、飢饉が起きるのだ。
人口が増えると、国力が増す。
食べ物も道路も武器も兵士も増えて、強国への道が開ける。
前漢の末期には、6000万人弱の人口。
時代が安定すれば、中国大陸、
それも江南をほぼ含まなくても、ここまで人口は増える。
それが王莽、それ以後の赤眉の乱などで、人口が減少。
実に3分の1まで減る。
3人に2人は死亡したことになる。
※世界史視点での戦死者参考資料はこちら
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5228.html
その後、100年経って、5600万人まで持ち直した。
後漢末期と言える桓帝の時代である。
ちなみに曹操が生まれたのは155年である。
184年に始まる黄巾の乱、董卓暴政、
群雄割拠・争乱、三国成立を
経て、三国時代末期には、約680万の人口。
実に8分の1。8人中7人は死亡。
そこまでの減少率。
戦死、餓死など様々な理由はあったであろうが、相当な死亡率だ。
物語などで楽しむものでもないぐらい、地獄絵図だった。
その後、西晋統一時に1600万人まで回復。
多分、戸籍調査で、人口の確認がしっかりできたのであろう。
急激に回復している。ここまで混乱していたのである。
漢の時代、支配地を13州に区分していた。
魏は10州、呉は2州、蜀は1州を支配。
支配していた州の数からしても、呉・蜀の圧倒的な戦力不足。
人口比からして、魏は蜀の約5倍弱、呉の約2倍弱である。
魏の中心部を中原と呼び、呉や蜀は歴史の中心にはなってこなかった。
蜀は流刑地であった。
呉は南蛮と呼ばれる地域で、人口も少なかった。
それが黄巾の乱(184年)以降の混乱で、
呉や蜀に逃げてきたことで、このエリアが
歴史の表舞台に立ったのである。