まずは曹操の異民族討伐。
烏桓を討伐(206年)、中原へ移住させる。
袁煕・袁尚兄弟の追撃の結果ではあったが、
人口増・兵力の増強に役に立った。
その後、岡田英弘氏によれば、魏文帝の221年、
北は太行山脈、東北は陽平、南は魯陽、東は郯、西は宜陽に
至るまでの地域を境界線で囲う。
石の標識を立てて、中都の地に指定。
この境界線の内側に漢人を強制的に移住させた。
魏の文帝は都は洛陽、
長安、譙、許昌、鄴の四城を副都とする。
対蜀用の長安以外は、上記中都の地の中にある。
これら以外は無人の野となったのだ。
土地の放棄である。
国防上の問題もあった。
国境地帯の民は、どうしても戦乱に巻き込まれる。
都度強い方につくほかなく、魏にとっても
裏切られる可能性が高い。
民を慮るという視点でも移住は理にかなっていた。
だから、蜀も長安以外を攻めとっても大して利益にならなかったし、
呉も合肥をとっても大して戦局に影響がなかった。
兵営としての都市でしかなかった。
238年(魏明帝・曹叡)には司馬懿・毌丘倹が遼西の公孫淵を滅ぼす。
ここでも民の強制移住はあったであろう。
なるほど、戦争=人口の確保だから、
この戦勝は司馬懿の名声アップに大きく寄与したのだ。