曹操が異民族を中原に移住させたことが、
のちの永嘉の乱の遠因となったとよく言われる。
そもそも調べてみると、
前漢・後漢もそうした移住はあった。
漢人と異民族との国同士での衝突は、
匈奴の冒頓単于に始まる。
北方の遊牧地帯を始めて統一した冒頓単于。
一方、同時期に漢人の統一国家・漢を建国した劉邦が、
紀元前200年、白登山の戦い。
当時平城、現在の大同市。異民族戦になるとよく出てくる名前。チンギス・ハンも金征伐の際まず初めに攻めた大きな城はここ。
遊牧エリアと農耕エリアの境目にある重要都市。
ここで、劉邦が冒頓単于に実質的に敗北したことから
両者のかかわりは始まる。
中華統一後、劉邦は韓信をはじめとして、
主要な功臣を粛清していたため親征することになった。
しかし、巧みな冒頓単于の謀略により、
白登山に包囲される。陳平の、冒頓単于夫人に対する策略で、
命からがら脱出した。
そののち、両社は和睦。匈奴・冒頓単于側に有利な内容で、
漢は匈奴に毎年財物を贈ることとなった。
異民族に対して財物を贈って和を買うのは北宋が初めてではない。
その後、前漢武帝が匈奴討伐をするまで、
匈奴から前漢は属国扱いされていた。
前漢武帝は霍去病に命じて、匈奴を打ち破る。
のち、呼韓邪単于(在位:前58年 - 前31年)に王昭君を嫁がせ、
実質的に漢の従属国となる。
呼韓邪単于の頃には、遊牧民のお家芸の相続問題で匈奴内が分裂。
(ちなみにモンゴル・元朝になっても同様。相続方法が統一した権力を志向しないため。)
これを解決したのは、満州族の清雍正帝。太子密建という。皇帝の玉座の真上にある、
「正大公明」の額の裏に後継者の名前を書いた勅書を置いておく。
雍正帝自身が皇位継承に後ろ暗いものがあったため、整備した。)
最盛期には匈奴の勢力範囲は、西はアラル海、東は満州までであったが、
このころは分裂していたため、弱体化していた。
しかしながら、王莽が華夷秩序の発想から、
匈奴を不必要に見下した対応をしたことにより、
匈奴が反抗。
後漢になってもそれは続くが、
匈奴自体が飢饉をきっかけに南北に分裂。
南匈奴は後漢に従属、北匈奴を滅ぼした。