歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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河越夜戦(かわごえよいくさ)~戦国関東の覇権を決めた戦い~

河越夜戦(河越城の戦いともいう)は1545年~1546年に起きた合戦。

 

関東へ急速な勢力伸長を着実に進める後北条氏(当主は北条氏康)。

 

一方、

古河公方(足利晴氏)・山内(やまのうち)上杉氏(上杉憲政)・

扇谷上杉氏(上杉朝定)の三家が連合して、

後北条氏に対抗。

 

後北条氏は、北条早雲の時代、小田原城を奪取したことから、

関東進出が始まった。

 

その小田原から見ると関東平野は河川によってエリアが

4つに分かれる。

 

相模川、

多摩川、

荒川、

利根川、

4つの線だ。

関東


この中で、河越城は、荒川のほとり、

南側にある。

荒川の線を確保するには、

河越城、江戸城の2つがある。

江戸城は、1524年に北条氏綱が奪取。

後北条氏から見ればここを確保したことで

小田原から荒川の線まで押さえていた。

 

荒川の線まで完全支配をすれば、

次は、荒川を渡った向こう岸の岩付城(扇谷上杉氏)か、

山内上杉氏の上野方面、そして両家の後ろにある

古河公方がターゲットになるのは明らかだった。

 

河越城は、

元々扇谷上杉氏の重要拠点であった。

 

扇谷上杉氏の代替わりのタイミングを捉えて、

(上杉朝興から上杉朝定へ)

北条氏綱が奪取した。(1538年)

北条氏綱の三男で、北条氏康の弟である、

為昌を城主として入れる。

後年、小江戸として賑わう河越城だが、

当時は町などはなく、城塞であった。

兵士を入れておく拠点で、国境線を守る要塞であった。

 

地形図や標高図で確認すると、

河越城のあたりは少し高台にある台地に位置する。

また河越城自体は

入間川が東・西・北を流れ、天然の堀(濠)になっている。

また扇谷上杉氏の家宰であった太田道灌が築城している。

太田道灌は築城の名手で、築城した城は皆名城だ。

 

高台から、遠方が確認でき、

周囲を水路に囲まれる、理想的な要衝、

それが河越城だった。

 

これを後北条氏は押さえることで小田原から荒川の線まで

勢力範囲となる。

河越夜戦の前までは、勢力図の不安定な

 

扇谷上杉氏は、相模(小田原含む)から武蔵(河越含む)までに

勢力を持っていた。

それが北条早雲から、次々と領地が奪われ、

後北条氏とは因縁の仲である。

 

窮地に陥った扇谷上杉氏は、仇敵の

古河公方・山内上杉氏(上野【群馬県】から荒川の線までが

勢力範囲)と結んで後北条氏と対抗することになる。

 

1545年の秋、

古河公方(足利晴氏。北条氏康の義弟で妹婿)・

・両上杉家(山内上杉氏【上杉憲政】・扇谷上杉氏【上杉朝定】)および

関東諸勢力軍は、河越城を包囲した。

河越城主は、北条氏康の義弟・北条綱成。(こちらも北条氏康の妹婿)

 

古河公方足利晴氏は、実権を後北条氏に取られ、

復権を図るために、両上杉家と手を結んだ。

 

この時の河越城攻めは非常に手の込んだもので、

これより前に、同年1545年の夏に今川義元が、

駿河富士川の東にある後北条氏領地を攻撃している。

(第二次河東一乱。河東=富士川の東側)

 

北条氏康は駿河に出陣、今川と戦っている最中の

河越城包囲であった。

 

北条氏康にとっては、挟み撃ちをされたことになる。

 

これを仕掛けたのは今川義元だった。

今川義元は、元々自家の領土だった

駿河富士川東側を早々に取り返すため、

第一次河東一乱(1536年)以来敵対関係であった後北条氏と和睦交渉を行う。

今川義元にとっては、

武田晴信の仲介依頼、

京都より聖護院門跡道増の下向を要請して

北条氏康との交渉したりするなど

相当気合の入った政略だった。

 

しかし、

北条氏康は断固拒否。

 

後北条氏にとって、

この河東は創業の地(北条早雲の関東支配は興国寺城から始まる)

であり、

当時線が細いと言われていた北条氏康にとっては、

自家をまとめるためには簡単には妥協できない話であった。

 

今川義元からすると、この話がまとまらないのは、非常に厳しい。

1536年の花倉の乱を経て、今川義元は家督を継承した。

この乱では、遠江の名族・堀越氏(今川了俊系)・井伊氏と

争い、遠江の支配もおぼつかない。

また三河への進出も、尾張の織田信秀との抗争により、

まだうまくいっていない時期だ。

桶狭間の戦いの前夜には、日の本随一の勢力を誇った今川義元も、

当時は対外戦略が全くうまくいっていない時期であった。

 

成果を挙げようと必死の今川義元。

目を付けたのが、北条氏康の後方、山内上杉家であった。

当時、山内上杉家上杉憲政は信濃において、武田晴信と対立していた。

しかし、今川義元はそれも調停し、

今川・武田と、山内上杉家上杉憲政を中心とした

古河公方、両上杉家・関東諸勢力軍による、

後北条氏挟撃が実行される。

 

関東、東国における決戦である。

 

まず、1545年夏に今川義元が、富士川以東に出兵。

合わせて、武田晴信も北から進出。

北条氏康は、駿河に出陣し両陣営と戦うも、

1545年秋9月、古河公方・両上杉家および

関東諸勢力が河越城を包囲。

 

両面に攻撃を受けることになる。

窮地に追い込まれた北条氏康は、

武田晴信に和睦交渉の仲介を依頼。

154510月に北条と今川の間で和睦が成立。

 

条件は、北条による今川への富士川以東エリアの割譲であった。

後北条氏の西側の勢力は伊豆のみとなる。

 

和睦が成ったのを見届けた北条氏康は、河越城救援に向かう。

しかし、大軍を前に安易な攻撃は行わない北条氏康。

まずは、偽りの降伏交渉を始める。

 

河越開城を前提に、城兵や城主北条綱成の助命嘆願をする。

古河公方・両上杉家軍は、河越城救援に来た

北条氏康軍を攻撃、氏康は府中(東京都府中市)まで

兵を引いた。

古河公方・両上杉家軍は、北条軍の戦意が低いと認識。

 

しかし、15464月、北条氏康は夜襲を仕掛ける。

河越城の北条綱成も同じく撃って出て、

連合軍を混乱に陥れいれる。

 

乱戦の中、扇谷上杉氏の上杉朝定は戦死、

扇谷上杉氏はここに滅亡した。

古河公方・山内上杉氏は退却。

北条氏康は河越城を解放、

関東の一大決戦に勝利した。

 

 

後北条氏の関東制覇の大きな転機となった。

今川にとっては、東側を確実に押えて

西に注力できる大きなきっかけとなった。