北条早雲は幕府方として関東に下向し、
幕府のために様々な調略を行った。
北条早雲が関東に勢力を張ったのは、下克上ではない。
1493年に足利茶々丸を討ったことが下克上と言われているが、
そうではない。
最近の研究ではこれは幕府方として、
幕府の指示に従って始末した。
元々北条早雲は伊勢盛時という。
そもそも生前、北条早雲は自身のことを「北条早雲」とは名乗っていない。
伊勢盛時と名乗っている。
伊勢氏とは誰か。
すぐに思いつくのは時の室町幕府の政所執事の伊勢氏だ。
伊勢盛時はその伊勢氏の庶流である。
※本家:伊勢貞親・・・8代将軍足利義政を幼少の頃から養育。
子の貞宗は、9代将軍義尚のとき幕政全般を統括。
伊勢盛時(早雲)と伊勢貞宗は従兄弟。
伊勢盛時は、1476年(文明8年)に駿河今川氏の家督争いを調停している。
応仁の乱の最中の関東下向だ。
関東においても、享徳の乱(1454年)をきっかけに大規模な
動乱が起きていた。その前からも室町幕府は関東を
制御し切れていなかった。
駿河今川氏は幕府側の要請に
応じて、関東の動乱に多々介入してきた歴史がある。
享徳の乱では、今川範忠がやはり幕府方として介入。
時の将軍足利義教に評価され、「天下一苗字」の栄を
賜った。
当時今川氏は嫡流の駿河今川家と庶流の遠江今川家があり、
争っていた。
遠江今川家は九州探題で成果を上げた今川了俊の流れである。
足利義満の諸大名統制謀略により、謀反の罪を着せられ、
没落していたが、まだ力は持っていた。
この足利義則の裁定により、今川を名乗ることができるのは、
駿河今川家のみとなる。
遠江今川家は堀越氏と名乗ることとなった。
この今川範忠の子・今川義忠が、
遠江の塩買坂の戦いで西軍に属していた遠江の守護、斯波義廉の家臣横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にする。(1476年)
幕府にとって、今川家は関東を押さえるのに重要な存在。
しかし幕府が後継に立てたい、
嫡男の龍王丸(母は北山殿。早雲の姉妹)は幼少。
そこに当時室町幕府と対立していた、
堀越公方足利政知と扇谷上杉政憲が介入してきた。
小鹿範満(今川義忠の従兄弟)は扇谷上杉政憲の孫。
当時古河公方と室町幕府の和睦(都鄙合体)が成り、
堀越公方は反室町幕府であった。
そこで伊勢盛時が下向し、
龍王丸が成人するまで 小鹿範満を家督代行とすることで
決着させた。
今川氏の家督争いが収まると伊勢盛時はは京都へ戻り、
9代将軍義尚に仕えて奉公衆になっている。