歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

異民族にとっての代(平城・大同市)

紀元前200年白登山の戦いは、

ちょうど統一政権が作られた、

北方遊牧民族と漢民族統一政権の戦い。

 

これが満州族の清朝が滅びるまで、

常に中国大陸の歴史に大きな影響を及ぼしてきた。

 

この白登山の戦いはもっとピックアップされていい戦いだ。

 

しかし、この白登山の戦いが、

行われたのが、代(今の大同市)だったことに少し驚いた。

 

高祖劉邦の事績をたどると、必ず出てくるこの戦い。

劉邦は7日間白登山で冒頓単于に包囲され、陳平の奇策によって

這う這うの体で長安に逃げ帰るこのシーン。

 

場所を調べてみると、代であるのだが、

この名前は異民族関連の中国の歴史に出てくるとかなり頻繁に表れる。

代は、平城、雲州、大同ともいう。

 

 

すぐに思いつくだけでも、4つ事例が思いつく。

例えば、

戦国時代、趙襄子(趙無恤)が常山に宝を隠したそれは何かという父趙簡子(趙鞅)のなぞかけに、

それは代だと答えた話。

趙簡子が当時人相見として高名なものに、子供たちを見せたとき、

趙襄子のみが大成すると予言した。

しかしながら、趙襄子は末子であり、

また母は北狄の出身で身分が低かった。

そのため趙簡子はこの話を聞き流した。

 

後日趙簡子は子供たちを集めてなぞかけをした。

「わしの宝の符を常山の頂上に隠してある。

見つけてきたものに褒美をやろう」

これに対して、趙襄子のみが

宝を見つけたと返した。

「常山の頂上に立つと、代を見下ろすことができます。

ここから代が取れます」

ここで趙簡子は、長子伯魯から、末子の趙襄子に後継者を変えた。

という話である。

趙簡子が没した後、趙襄子は見事に代を手に入れ、

廃嫡を恨まなかった伯魯の子・趙周(代君となる)に治めさせた。(紀元前463年)

この話には後日談があるが、

趙襄子がのちに智瑶(智伯)と、魏・韓に攻められたときに

代君・趙周は代の兵を連れて救援、智瑶を敗死させるのに功があった。

(紀元前454年 晋陽の戦い)

異民族含めた代兵が活躍したのは想像がつくが、

そもそもこの趙襄子たちの祖先・趙衰(趙成子)から、趙氏は

代など北方のエリアと縁が深い。

趙衰の子・趙盾(趙宣子)の母は、北狄(代)の出身である。

その後も趙氏は北狄との通婚が多い。趙氏の出身は狄だったのだろう。

晋の文公(重耳)に従った孤氏も狄の出身だ。

そう考えると、趙の領地が北よりにあるのも理解できるし、

武霊王の胡服騎射も理解できる。

 

 

 

398年に鮮卑族の道武帝拓跋珪が拓跋魏(北魏)を建国したときに都をおいたのは平城。

中国史上初めての征服王朝だが、草原との連絡がよいこの平城を

道武帝拓跋珪は選んだ。

 

五代十国の時代、後晋の石敬瑭が遼(契丹)に割譲したのは燕雲十六州、

「燕」は三国時代で言えば幽州、今の北京市周辺、

「雲」は代、すなわち大同市周辺のことである。

石敬瑭は936年に後晋を建国した。

その時に契丹(遼)に支援してもらった。その見返りとして燕雲十六州を

割譲したのである。長城に囲まれた、守りやすいエリアであった。

ここが契丹に取られたことにより、易々と華北に侵犯することができるようになった。

中国王朝としては国防上の大きな損失であった。

 

 

またチンギス・ハーンが1206年にモンゴルを統一した後、

南に位置した、金帝国を攻めたときに、(金遠征 1211年~1215年)

一番初めに攻めたのはこの大同だった。

この際に高い城壁を持つ中国式の城に対して、攻城兵器のないチンギスモンゴル軍は、

攻めあぐねて一度撤退している。

その後、中国人から攻城戦を学び、次々と中国式の城を陥落させた。

 

代は、中国にとっては異民族との最前線基地、

異民族にとっては、中国攻略の手始めの城であった。


代・常山・晋陽


この常山は本来は恒山と呼ぶ。

前漢文帝の諱(いみな。実名)が劉恒であり、避諱をして常山と呼んだ。

(ちなみに即位前に劉恒は代国に王として封じられていた。代王。)

道教の五岳の一つ。道教の聖地。標高2017m。

恒山の標高は、

中国本土(チャイナプロパー。シナともいう)で5本の指に入る。