歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

匈奴の冒頓単于はどこにいたのか。

なぜ、代は異民族に狙われるのか。

 

それは異民族にとっての首都ともいえるエリアから

至近距離にあるからだ。

 

本当に代はよく出てくる。

葪(幽州。今の北京市周辺)よりも頻出だ。

なぜなのかと思っていたらちょうどほかのことを調べているときに、

この理由を発見した。

 

 

匈奴研究で名高い、江上波夫氏著「騎馬民族国家」から引用する。

 

P50 「単于は、左翼の諸王将の地と、右翼の諸王将の地の中間を直轄領とし、

"漢の代郡・雲中郡の北にあたる地点に王庭、いわゆる単于庭をおいた。

"

単于庭は遊牧騎馬民族の王庭のつねとして、

かならずしも一ヵ所に固定していた様子はないが、

匈奴がゴビ以南を確保していた期間は、

だいたい代・雲中両郡の北方、陰山山脈の

南麓におくのをつねとしたようである。」

 

陰山山脈 

 

モンゴルをはじめとして、

遊牧騎馬民族というのは、草原を動き回っている印象があるので、

ここというのはないのだと思っていた。

 

しかし江上波夫氏の著述によると、

草原地帯の右側と左側をそれぞれ、近親に委任し、

その間、つまり真ん中を単于の直轄地とする。

 

中国大陸の北方遊牧民は大体右(東)は大興安嶺山脈を東端とする。

旧満州までは入らない。

西側はそれぞれの統一政権の勢力次第だが、オルドスから甘粛省の北あたりは

まず勢力範囲だ。西端は、玉門関の北側あたりだ。

そこから西に行くと、テュルク系の突厥やウイグル、タングート(北宋期には西夏を建てる)の

勢力圏だ。民族的な地場という意味ではここまでだ。

 

そう考えるとちょうど代の北側が、東端・西端の真ん中になる。

ここが、地政学的に異民族、草原の民の中心になるわけだ。

現在の地名で言うと、内モンゴル自治区ウランチャブ市という。


 

東から、西から兵を真ん中に集めて、

中国を攻める、

一番近くて大きい都市は、代・大同になる。

 

 

中国にあこがれた、鮮卑族の拓跋氏がまず手に入れた中国の都市が、

平城(代・大同)だ。

大同からまっすぐ北へ、馬に乗ってひた走れば、

すぐに本拠地に戻れる。

陰山山脈の南麓にある。

私が思っていたよりもずっと近い。今の感覚で言ったら、

全然中国だ。

拓跋氏もそう抵抗なく、遷都できただろうし、自分たちの今までの文化・生活様式を

維持しながら徐々に中国式に改変することもできた。

 

モンゴルにとっては、

すぐに攻撃できる中国の都市が、この大同(代・平城)だ。

チンギス・ハーンが受けた世界制覇の天命を

すぐに実行できるのがこのルートで、この都市だ。

 

異民族の本拠地に近接し、

華北になだれ込める、回廊・通路ともいえる場所に代はあったのである。



陰山山脈・・・

大同市からまっすぐ北に北上すると、陰山山脈に突き当たる。

この山脈は断崖になっている。山脈を越えるとゴビ砂漠だ。

ここから東に向かうと張家口、ここで大興安嶺にぶつかる。

張家口から南東に下がっていくと、先は北京だ。

今度は逆に西に向かう。

山沿いに西に向かうと、フフホト、パオトウ(包頭)がある。

パオトウで黄河が見れる。手前のフフホトの南で、黄河は南に流れを変える。

この先山沿いに西に行くと、甘粛省の北に出て、酒泉に至る。

黄河や湖もあって、水が豊かな高原地帯だ。