歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

伊勢盛時(北条早雲)、関東に根を張る。

今川氏の家督争いを伊勢盛時は調停したが、

小鹿範満は龍王丸が元服近くになっても家督を譲る意向を示さない。

伊勢盛時は、1487年再度駿河に下向、

龍王丸を補佐するともに、一緒に石脇城(焼津市)に入城。

兵を集める。

同年148711月に、伊勢盛時は挙兵、駿河館を襲撃して、

小鹿範満とその弟小鹿孫五郎を

殺した。


龍王丸は駿河館に入り、2年後に

元服して、氏親と名乗る。

正式に今川家当主となった。

今川氏親擁立に功績のあった、伊勢盛時は

伊豆との国境に近い興国寺城(沼津市)に所領を与えられた。

(客将のような形。臣下ではない。)


1493年に明応の政変が起きる。

私はこれが戦国時代の始まりだと考えている。

時の室町幕府10代将軍足利義材(よしき。後に義植(よしたね)と改名する。足利義視の子)は、

将軍専制、幕府権力強化のため、

各守護を統制しようとしていた。

それに反発したのが、日野富子、伊勢貞宗、細川政元。

彼らは決起し、将軍の廃替を行った。

実際に兵を動かした細川政元(勝元の子。三管領家)の権力が増し、

家臣が将軍位に介入するようになった。


後任の将軍は足利義澄。

堀越公方・足利政知の子。

僧侶であったが還俗させられ、将軍となった。

堀越公方・足利政知は、伊豆の堀越というところにいた。堀越は、伊豆の韮山。

1491年に病没していた。

家督は、潤童子に継がせたが、

廃嫡されていた、足利茶々丸に殺害された。


当時、享徳の乱(1453年~1483年)と長享の乱(1487年~1505年)の影響により、

反室町幕府となっていた足利茶々丸。

伊勢盛時は1495年に伊豆に侵入し、足利茶々丸を伊豆から追放する。

(足利茶々丸を自害に追い込んだのは1498年)

この時から伊豆韮山城に本拠を置く。


その後、1501年までには小田原城を奪取。

軍記物では、北条早雲の調略で大森藤頼を討ち、

小田原城を奪い取ったという話があるが事実は

定かではない。

相模や小田原は扇谷上杉氏の勢力範囲。

当時長享の乱の最中にあった扇谷上杉氏は、

伊勢盛時を自陣営に取り込むために、

伊豆から箱根を越えてすぐの小田原という関東の地を与えたともいわれている。


関東の争乱に、常にキーパーソンだった今川氏。

今はその今川氏に大きな影響力を及ぼす、伊勢盛時。

扇谷上杉氏は、今までの歴史のように、

伊勢盛時と今川氏を取り込むことで関東の争乱に勝利

しようとした。


1504年武蔵立河原の戦いが起きたときには

、伊勢盛時は今川氏親(龍王丸)とともに

扇谷上杉定正の甥で扇谷家当主上杉朝良に味方した。

この戦いは、扇谷上杉氏の勝利に終わるが、

これを契機に山内上杉氏顕定の弟、越後守護上杉房能が

争乱に本格介入。


1505年扇谷上杉氏上杉朝良は本拠河越城に追い込まれ、

降伏。長享の乱はこれで終結し、扇谷上杉氏は

山内上杉氏に降伏した。

ここから、伊勢盛時は両上杉家と対立関係になる。


1512年に扇谷上杉氏側の三浦氏の領土、

岡崎城(伊勢原市)を攻略。

小田原から相模川の線までを領域とする。

同年、三浦半島攻略のために、

三浦半島の付け根に位置する玉縄城(鎌倉市大船)を築城。


1516年には三浦半島の新井城で三浦義同を滅ぼす。

これにより、相模国全土を征服。

家督を嫡男氏綱に譲り、翌永正16年(1519年)に死去 する。

伊勢盛時は、本拠を伊豆韮山のままであった。

西は現沼津の興国寺城から相模全域(相模国は今の神奈川県から、

川崎市全域と横浜市の大部分を除いたエリア)


当時のマクロ視点での関東の争乱について:

当時関東は、長享の乱(1487年~1505年)の最中。

享徳の乱(1453年~1483年)の間は、

協力関係にあった両上杉家(山内上杉氏と扇谷上杉氏)

古河公方対室町幕府側の両上杉家との戦いだった。

両上杉家は幕府が派遣した堀越公方の足利政知を

擁立し戦う。しかし、1483年室町幕府と古河公方が

和睦(都鄙合体)。

これにより堀越公方・足利政知は宙に浮いた存在になる。

長享の乱の結果、山内上杉氏は大きく権威を下げた。

長享の乱の後半、重臣長尾景春の反乱があったためだ。

一方で、この反乱を鎮圧した扇谷上杉氏が高まった。

大きく評価を高めたのは、実際に鎮圧をした、

扇谷上杉氏家宰太田道灌である。

扇谷上杉氏の興隆を見た山内上杉氏は調略を図る。


山内上杉氏当主上杉顕定(1454年~1510年。

長森原の戦いで、長尾為景と対峙。大敗し顕定は自刃。)が

扇谷上杉氏上杉定正(1443年?~1494年。荒川渡河中に落馬して死亡)を

そそのかし、扇谷上杉氏上杉定正は太田道灌を殺害。

(太田道灌は江戸城の他に要衝・岩付城、河越城を築城した。)


その後両上杉家は長享の乱に入るが、

最終的には山内上杉氏の勝利に終わった。(1505年)