歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

後漢が匈奴を呑み込んだ。

北匈奴の滅亡後、ぽっかり空いた北方草原地帯には

東方から鮮卑や烏桓が入ってくる。

 

前漢武帝後に、内乱で徐々に弱体化した匈奴。

そのすきをついて、

大興安嶺山脈東側を原住地とした、

鮮卑や烏桓が勢力を伸ばす。

 

はじめは後漢の傭兵として、

匈奴と戦い、匈奴が滅亡した後、後漢を侵略し始めた。

 

鮮卑の首領・檀石槐(だんせきかい。2世紀後半在世)

は草原を駆け回った。

 

東は満州西部から西は玉門関北部までを勢力を伸ばし、

元の統一匈奴の持っていた勢力範囲をそのまま手に入れた。

そして度々後漢の領域を犯すほどまでになった。

 

河套(オルドス地方)は南匈奴が依然として勢力を持っていたが、

代方面は雁門関の線まで侵入していた。

 

鮮卑が躍進する中、

南匈奴はさらに弱体化、単于の権力も失墜。

 

羌渠単于は黄巾の乱などに際して後漢側に

援軍を送っていたがそれを嫌う南匈奴内の勢力に殺害される。(188年)

 

その子の於夫羅は洛陽まで行って後漢の支援を求めたが、

時は後漢霊帝の崩御などの大混乱期。願いはかなわず、また帰国もかなわず拘留された。

 

叔父である右賢王の去卑が本国を治めることになる。

去卑は、献帝が長安から李傕,郭汜たちから逃れるのを楊奉らに従って護衛している。

安邑、洛陽、そして許昌まで献帝に随行した。(195年冬から196年)

於夫羅は195年に死去。

単于位は弟の呼廚泉(こちゅうせん)に移る。

 

呼廚泉は、202年に袁紹の一族・高幹とともに曹操と戦うが敗北、

216年に入朝、曹操の本拠地・鄴に留め置かれる。

 

曹操は205年に烏桓(東胡の一族。鮮卑の同様)討伐を完遂しており、

ここに曹操は匈奴も押さえることになる。なるほど、どうりで曹操の軍は騎兵が多く強いわけだ。

 

於夫羅の系統は五胡十六国時代の端緒となる劉淵に連なる。

 

於夫羅の息子が劉豹だ。

劉豹から劉氏を名乗ることになる。古に前漢皇室と匈奴単于の間に婚姻関係があったことが理由。

この劉豹は、蔡邕の娘・蔡文姫を側室としている。

去卑が献帝の護衛のために長安に行ったとき、蔡文姫を拉致して側室としたらしい。

207年に曹操は蔡文姫を財物と引き換えに帰還させている。

なお、蔡邕のもうひとりの娘で、蔡文姫の妹の息子が、三国末期から西晋の羊祜(ヨウコ)である。

 

劉豹の子が劉淵である。(蔡文姫の子ではない。八王の乱の最中、304年に国号を漢として独立した。)

於夫羅の後を継いだ呼廚泉は中原に留め置かれた。

呼廚泉自身は、平陽(山西省臨汾市。春秋時代の晋国の首都・絳や曲沃があったところ。)が本拠地。

本国は去卑が治めた。

 

呼廚泉は司馬炎が西晋を建国した時の即位式にも参加している。(265年)

 

呼廚泉が記述上最後の南匈奴単于である。

へいしゅう


平陽から北に行き、フフホトから東に行って、バヤンノールまでが、

南匈奴の支配地域で、三国志時代の并州である。

(呂布はバヤンノール・包頭周辺にあった五原郡の出身である。)

平陽は、春秋晋の首都絳である。

この周辺から代の南までを山西高原(平均標高1000m)と呼ぶ。

意外にもピックアップされないが、

このエリアも関中平野(渭水盆地)のように山に囲まれた盆地であり、

割拠しやすいエリアである。