西周時代の中原とは、洛陽から泰山の間である。
「中原」という概念は時代によって変わるという濁した言い方が多いが、
洛陽から泰山が中原だ。
まず大河である、黄河・長江によって二つの線が描かれる。
一番東端は海。
南端も海。
北端は万里の長城。高い山々がある。
西は、関中、蜀という二つのエリアが西端。
関中、蜀、あと漢中は独立した盆地。
それ以外は大きな平野になる。
その中に二つわかりやすい山地がある。
洛陽の東側と泰山周辺だ。
関中から函谷関を越えて平野に出たところが洛陽。
黄河のほとりでもある。この辺りは渡河が比較的しやすい。
その東に山地がある。
非常に守りやすく、東西南北どこにもいける交通の要衝。
ここを周公旦が中原支配の拠点にしたのはなるほどなといったところ。
加えて周公旦は、息子の伯禽を魯に封じた。
魯は泰山のふもと。このあたりにも山地がある。
実は、斉の桓公の話になるとよく魯と争っているので、
近くて密接なのかと思ったら、山があった。
そういえば、斉は東夷の国でそこを抑え込むために太公望が行ったわけだった。
ゆっくり行こうと思ったら、早くいくべしといって、それで反乱にあわずに
すんだという故事もある。
ということで、当時の中原の一番東側が魯で、
洛陽と魯をつなげて、中原を支配しようと思ったわけである。
洛陽と魯の間が中原。
洛陽の東、鄭州市の西にある、滎陽(現在河南省滎陽市)から黄河は分かれる。
南宋時代の1128年(というか、金が支配している時代ですね。南宋が
正統だという思想が見えますね。南宋建国の翌年)
に黄河の流路が変わる。
北宋まではこの滎陽から黄河はわかれると認識してよい。
この滎陽を起点にして、
天津の長辺、
そして済南市を通過して渤海湾までの線、
その間が黄河デルタでぬかるんでいる。
そのエリアからすると、
泰山、泰山山塊は遠くからも見える。
泰山は目印になった。