歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

陣形の元祖は村上義清

武田晴信(武田信玄 1559年に出家)の村上義清掃討戦,

それに対する村上義清の決死の突撃戦,

武田晴信を負傷させる。

 

陣形というより隊形だが、

前衛に弓兵と鉄砲兵を配置。

弓と鉄砲で敵勢に射かける。

そして、弓矢や鉄砲玉が尽きたら、

それら武器を捨てて白兵戦を仕掛けるというものだった。

 

このやり方を山本勘助がベンチマーク。

 

武田の軍法として取り入れる。

(甲陽軍鑑)

 

強い武田の完成。確固とした軍法。

 

村上義清の亡命先となった越後・上杉謙信も

この村上義清の陣形戦法を取り入れる。

 

やはり強くてまとまりのある上杉軍が

出来上がる。

 

武田と上杉、どっちが先に取り入れたかはわからない。

 

織田は上杉との手取川合戦でこの陣形戦法を知ったようだ。

論拠は明智光秀の文書。

明智はこれほど織田のためという視点があった男なのに、

本能寺の変の犯人にされている。疑わしい。

 

話は戻るが、

織田は元々織田信長という勇敢な大将が

自由奔放に遊撃戦・奇襲戦を仕掛けるというのが

常套手段であった。

三国志で言うと、夏侯淵に近いか。

 

織田信長が突如敵勢に仕掛け、近くにいた兵士がその織田信長に向って

集まっていき、敵勢と戦う。

多分に桶狭間の成功がその後のひとつのパターンとなったのだ。

こういうと元も子もないが、事実だ。

 

本願寺との戦いの中で、

一度織田勢の精鋭が窮地に陥ったことがある。

天王寺砦の戦い。(1576年)

この天王寺を拠点にして北にある本願寺を攻めていたわけだが、

ここを雑賀勢に襲われた。

 

明智光秀を総大将とした軍勢が天王寺砦で雑賀勢に襲われ、

砦内に閉じ込められてしまった。

 

 

その救出のために、織田信長が一人馬に乗って駈け抜ける。

雑賀勢なので兵士数に対する鉄砲所有率が高いが、

鉄砲射撃の中織田信長は砦に駈けこむことに成功する。

そして、砦内の軍勢を督戦し、外部からの援兵により

雑賀勢を追い払うというエピソードだ。

 

非常に有名なエピソードで、

織田信長の事跡の中で12を争う格好いいシーンだ。

 

マンガなどにもよく採用される。

砦の総大将が明智光秀というのは曖昧にされているケースがほとんどではあるが。

 

このエピソードは本能寺の変の犯人が光秀ではないという

私の中のひとつの根拠ではあるが話がそれ過ぎなのでここまでとする。

 

いずれにしても、

織田信長の戦い方は、案外とやたらめったらということだ。

だからこそ大将が目立つ。

 

社会に出て組織人として活躍をしたことがある人ならわかることだが、

トップだったり、ある特定の人が目立ちすぎる集団というのは

組織立っていない。

 

組織立った行動ができない。

 

織田家の限界がここにあるわけだが、

手取川合戦で上杉に負けたことを

明智光秀が陣形に理由を求めているのは特筆すべき点であろう。

 

ここから織田軍に陣形という概念が入る。

 

よく徳川が武田の軍法をベンチマークしたという話がある。

石川数正の豊臣家への出奔がきっかけと言われているが、

ここか、もしくは武田領の支配(天正壬午の乱)のときに

いわゆる武田の軍法を取り入れたのであろう。

 

徳川勢に陣形の概念が生まれる。

 

そうして、豊臣政権は、

九州征伐や小田原征伐のとき、

軍勢の中央集権化を果たしている。

豊臣秀吉の指示のもと軍勢が動くのだ。

 

関ヶ原もそうだ。

東軍は徳川家康の指揮のもと動く。

しかし西軍はそうではない。

石田三成のいうことを聞いているわけではない。

それぞれの軍勢がそれぞれ戦っている。

まだ室町時代なのだ。

 

だからそれぞれ敗走する。

 

後年黒田長政がこのように言っている。

「私の軍勢を率いて指揮をふるってみたかった。」

この言葉変に感じないだろうか。

 

福岡52万石の大名で、軍勢の規模としては大きいのに

指揮をしたことがないというのは何か変な気がする。

 

実は、長政は自領の軍勢を引き連れても、

自身で采配を振るっているわけではなかった。

 

黒田長政は、陣形としての戦い、総大将の指示以外での勝手な行動は

もうできない時代の人間なので、四条畷の戦いにおける

高師直や佐々木道誉のようなことはできなくなっていた。

 

戦国時代も後半になると、

何か武将が小者に感じる部分があるが、

それは軍勢の大将に対する中央集権が進んでいたからである。

 

本来は、関ヶ原の戦いの前哨戦、

岐阜城攻めの福島正則と池田輝政(本当は照政)の

先陣争い、抜け駆けに対するいさかいというのは、

この時代特有のものなのだ。

室町時代以前は当然あったのだ。

その一番有名なのが源義経なのだろう。

 

源義経は奇襲・抜け駆けばかりだ。

だから梶原景時と相いれない。