歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

鮮卑と烏桓~三国志から西晋時代まで~

匈奴が勢力を保っていた間は、

鮮卑・烏桓共々匈奴に服属していた。

しかし、匈奴の南北分裂など、

で独自の動きが出てきた。

 

そんな鮮卑・烏桓を

後漢は傭兵として活用。

匈奴の征討作戦に利用する。

 

鮮卑・烏桓はまさに

反復常ない状況で

今日は後漢に従えば

明日は後漢を略奪するような

状況であった。

鮮卑は匈奴・烏桓征討の傭兵となり、

烏桓は匈奴・鮮卑征討の

傭兵となった。

それぞれ大きな功績があった。

 

烏桓はそうしていく中、

後漢期の南匈奴同様長城以南に南下し、後漢の服属化に至る。

 

一方鮮卑は、

匈奴が南北分裂し、

北匈奴が覆滅した後の

空白地帯を占領。

大興安嶺山脈以西から

蒙古高原、甘粛の北部までちょうど

冒頓単于が築いた匈奴の勢力範囲までを一旦築く。

 

 

南匈奴は後漢服属後、

徐々に漢化というべきか、

多分に農耕文明の中華文明に

取り込まれていったのだろう。

 

もちろん遊牧民としての

匈奴族も残っていたが、

(それらが五胡十六国時代の

戦端を開く)

呼韓邪単于が

中華皇帝の即位式に出席したり、

本拠地が古の晉(春秋)の故地にあるようであればそれもやむを得まい。

 

鮮卑は、後漢末期の

檀石槐

の死後分裂するが五胡十六国時代前夜、西晋末期には勢力を取り戻しつつある。

 

西晋末期の鮮卑諸族の

主要なものは、

慕容部(南満州)

段氏(熱河 東モンゴル)

宇文部(シラムレン流域 東北モンゴル)

禿髪部(トクハツ)と

乞伏部(キツフク)

(甘粛北部)

吐谷渾部(青海東部※慕容部から分離した)

 

五胡十六国時代から隋唐期に

登場する諸族ばかりで、

感動すら覚える。

それぞれ、王朝を建てたり、

強いのは権力を持つなど

歴史の表舞台に立つことになる。

 

 20170104烏桓鮮卑


烏桓は

207年の曹操による討伐で

滅亡、曹操、後の魏の尖兵となった。

魏の騎兵が強いのは、

この烏桓の完全制圧が大きいのであろう。

烏桓はこれ以後歴史から

消え去る。

烏桓の人口は後漢末期には江波氏によると、

50万人に近かったとしている。

黄巾の乱(184年)以後の動乱で

人口が約6000万人から

500万人程度に減少した。

餓死・戦死などだ。

10分の1以下になった。

その中で曹操が押さえたエリアは、文明の先進地帯であり、

人口も比較的多かったが、

それでもこの烏桓の50万人を

手にしたのは大きかった。

 

三国時代(三国志)は、

実は国力増強の為に異民族対策がキーポイントになるが、

曹操は魏の建国前に

烏桓を従えていて、

2国に大きくアドバンテージを持っていた。