2017-03-20から1日間の記事一覧
司馬昭は、 司馬氏生き残りのため、 なんとしてでも蜀漢を討滅させなくてはならなかった。 鍾会は、 自身の才能を認めさせ、成り上がるために、 蜀漢の攻略が必要であった。 蜀漢の討伐に賛成しているのは、 司馬昭と鍾会のみだった。 司馬昭は、鍾会には任…
前漢景帝には十四人の男子がいた。 劉備は、景帝の男子の一人である、 中山靖王劉勝の子孫と称している。 劉勝は、九男である。母は賈夫人。 景帝の崩御後、後を継いだのは、 十男の武帝劉徹である。母は王皇后。 漢を復興させた、後漢光武帝は、 七男長沙定…
漢の諸葛丞相は、 魏賊を討伐するために北伐を敢行する。 劉備が漢皇帝位を継いだ経緯から、 これは至上命題である。 漢中から魏を攻撃するわけだが、 秦嶺山脈を超えた先には、 関中平野がある。 長安は前漢の都であった。 民衆にとっては つい数年前まで、…
三国志において、 劉備が創業した国は、一般的に「蜀」と呼ばれる。 しかし、劉備たちは、自国のことを 「漢」と呼んでいた。 または、末っ子の漢ということで、「季漢」とも呼んでいる。 241年に蜀(蜀漢、漢)の楊戯が著した 「季漢輔臣賛」という本もある…
鍾会の著書「才性四本論」における 「性」とは何を指すのか。 それは人柄を指す。 王莽、光武帝以来、後漢では、 儒教思想で素晴らしいとされる人が採用されてきた。 人材採用、具体的な方法は郷挙里選である。 各選抜項目があるがその中で最も重要視された…
鍾会の、母の存命中の事績は少ない。 しかし、母の死後の鍾会の成果は全て狡猾で、 なんともアクの強いエピソードばかりである。 四書五経を修め、それに則って行動したとはとても思われない。 春秋晋の士会のような、真っ直ぐさもない。 孟母顔負けの鍾会の…