歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

三国時代

司馬懿=前漢宣帝=後漢光武帝=袁紹 ②

司馬懿の宣帝という諡号は非常に政治的メッセージが強い。 司馬懿は前漢宣帝になぞらえられた。 その宣帝は、光武帝から 中宗の廟号を追贈されている。 光武帝は前漢宣帝をベンチマークしている。 この追贈は大変異例なことだ。 光武帝自身は、王莽によって…

司馬懿=前漢宣帝=後漢光武帝=袁紹 ①

司馬懿は前漢宣帝になぞらえられた。 司馬懿の諡号は宣帝。 司馬懿死没の時点で、宣帝とは前漢の宣帝のみである。 前漢の宣帝といえば、 儒家の学問を修めながら、法家主義も用いて政治を行った。 以下のエピソードが有名である。 儒家を勧めてきた息子で太…

名族の時代を司馬懿が開く

249年司馬懿は高平陵の変(正始政変)から、 西晋が滅びる永嘉の乱までは名族(貴族。中国では士族という)の時代である。この時代は儒家を基礎に置いた復古思想が主流となる。 結論として、司馬懿は、 皇帝権を振るうのではなく、 名族の支持を得ることで…

改正九品官人法~司馬懿の狙いは名族の支持~

司馬懿は249年の高平陵の変(正始政変)の結果、 魏の実権を一人で握った。 司馬懿が実権を奪取後行ったことで、 注目に値するのは、 九品官人法の改正である。 この目的は以下3点である。 ①政権を握る司馬懿が、人事権を掌握した。 ②浮華の士(しかし実は最…

「浮華の徒」の何が悪いのか。~魏の実力主義その実態~

魏においては、文ではなく武。 すぐに成果を出すものこそが善。 司馬懿からすれば、 何の実力もないのにも関わらず、国政・軍事に携わり、 国を誤った。果ては、司馬一族に対して、敵意を持った。 曹叡からすれば、 自分の役に立たない。実務に役に立たない…

魏の法家政治は功臣司馬懿すら追い詰める。

厳しく冷酷な実力主義を乗り切ってきた名族出身の司馬懿。 それを、深く考えずに権力欲を表に出した曹爽一派が 司馬懿を実は追い詰め、曹爽一派を滅ぼす。 実力主義、皇帝専制、出身一族しか頼れない、 この三つが司馬懿を追い詰めた。 曹爽の登場で、実力主…

司馬懿はどうすればよかったか2(正始政変前夜)~歴史から見る司馬懿の立場~

実は歴史的な選択肢を取った司馬懿。 皇帝という概念が産まれてから初めて、 功臣が武力クーデターで権臣となった事例となった。 これが司馬懿であり、正始政変である。 ●際どい立場の司馬懿 ●窮地に陥った司馬懿の三つの視点 ①先祖:司馬懿は戦国趙の将軍司…

司馬懿はどうすればよかったか1~文化・思想~

司馬懿は儒家思想で育ち、 曹魏の法家主義の確立に貢献した。 そしてその厳しい実力主義の中で、勝ち残った。 儒家と法家の両方を修養し、 文武に力を発揮したのは、 この時代、 司馬懿の他には曹操や諸葛亮ぐらいしかいない。 頭一つ出たことでやむにやまれ…

司馬懿は実は曹真と姻戚であった。

曹真の妹= 夏侯尚の正妻。(夏侯尚はこの曹真の妹ではなく、妾を寵愛したため、曹丕にこの妾を殺された。) その娘夏侯徽=司馬師のはじめの妻 曹真の姪の夫=司馬師。 夏侯徽の兄夏侯玄=司馬師の義理の兄。 夏侯玄・夏侯徽の叔父=曹真 夏侯徽の義理の叔…

「蜀」の丞相ではない、「漢」の丞相諸葛亮である。

蜀は魏の言葉だ。 蜀とか蜀漢とかは正当な名前ではない。 彼らが名乗った正式な名前は、 「漢」である。 蜀を漢に書き換えて、 いわゆる蜀漢を見直すと印象が大きく変わる。 漢に直して歴史上の出来事を文章にしてみる。 「漢の丞相諸葛亮は、漢皇帝劉禅に出…

興勢の役:魏にとって対蜀戦線では初めてにして唯一の大敗

興勢の役は、魏帝国の歴史においても、 大きな意味があった。 対蜀戦線において、 魏から仕掛けた戦いとしては 初めての大敗なのである。 魏帝国の建国の221年から、 魏帝国が消滅する265年まで、唯一の大敗となる。 大きく権威を落としたのだ。 対呉戦線で…

244年曹爽の征蜀(興勢の役)に至るまでの経緯

興勢の役の名前は、 主戦場が蜀の漢中郡にある興勢山(興勢坂)であったためである。 蜀漢の執政で最高権力者の蒋琬が漢中から涪城に移動した。 漢中の駐留軍勢が減ったので、曹爽は駱谷道を使って攻めた。 しかし蜀漢の王平が興勢山で陣を敷き迎撃。曹爽は…

司馬懿は揚州方面のみ戦歴がない。だから司馬師以降揚州で乱が起きる。

上記は司馬懿が将軍として戦ったエリアを丸で囲ったものだ。 司馬懿は対呉戦線の揚州方面のみ戦歴がない。 だから、司馬師以降揚州のみ反乱が起きる。他は掌握できていたのだ。 揚州は、曹休→満寵→王淩→諸葛誕→毌丘倹→諸葛誕が都督揚州諸軍事である。 王淩以…

曹爽・司馬懿の対立のきっかけは、興勢の役(征蜀)

曹爽・司馬懿の対立のきっかけは、興勢の役(244年)からである。 それまで二人は共生できていた。 曹叡崩御から、対立のきっかけとなる、興勢の役までの流れを記す。 司馬懿は対呉戦線の整備に乗り出す。 曹爽は対蜀戦線を司馬懿から貰い受けたのだろうか。…

曹爽・司馬懿が任命された「侍中・仮節鉞・都督中外諸軍事・録尚書事」とは

司馬懿は曹叡の遺詔により曹芳の後見をすることになった。 大将軍の曹爽と、 大尉の司馬懿は、 侍中・仮節鉞・都督中外諸軍事・録尚書事が加冠される。 ※仮節鉞・・・ 仮節鉞は、仮節と仮黄鉞の意味。 仮節は、軍律違反者に対する軍法執行権。 仮黄鉞は、軍…

法家政治の反動~正始の音2~

曹芳の即位後、魏は弛緩する。ゆるむ。 厳格な人生を歩んできた司馬懿は世から煙たがれる。 皇帝権という権力の空白 厳しい法家主義政治の窮屈さ 玄学清談の気風を産む 、「正始の音」という時代に差し掛かる。 曹爽と司馬懿の二人で皇帝を輔弼するという非…

当代随一のキャリアを極めた司馬懿、世から煙たがれる~正始の音~

人臣としての当代一流のキャリアを極めた司馬懿。 当時の名士としては、一流の業績と経歴を持つ。 録尚書事 事実上の宰相 軍功 事実上の大将軍 蜀と呉を防ぎ、遼東を征伐する。 遺詔通り、曹叡を盛り立てた。 曹叡崩御のとき、司馬懿は60歳。 三国志の英雄は…

曹魏の文帝曹丕・明帝曹叡は皇帝専制を実現した。

曹魏は、漢王朝が正統であり、皇帝は漢、すなわち劉氏でしか ありえないという思想に挑戦した。 王莽に続いての挑戦である。 輔弼か禅譲か、悩んだ結果、曹丕は禅譲を選んだ。 多分曹操も同様に意思表明していたのだろう。 ※曹魏・・・ この曹操が創業し、曹…

司馬懿の戦歴は、曹叡崩御時相対的に他を圧倒。

曹叡即位後、荊州戦線指揮官として、 南陽郡宛に出鎮してからの戦歴を下記に記す。 11度の戦歴がある。要所要所、都度重要な事件を挿入する。 ①226年 対呉 襄陽攻防戦 ②227年ー228年 孟達征討戦 ③228年 呉 石亭の戦いにおける荊州戦 ④230年 曹真の対蜀征伐 …

魏明帝曹叡は自身の危篤に際し折衷案の後継体制しか選べなかった。

突然の発病。魏明帝曹叡は死期を悟り、 後継体制に悩む。 皇帝独裁へ舵を切った皇帝曹叡。 信頼できるのは、秘書に近い役割の、 散騎常侍の孫資と劉放のみ。 宗族も臣下も、信頼できるものが非常に少ない。 ※散騎常侍・・・ 皇帝の側近として詔など皇帝の指…

司馬懿が「倭」という一文字の国を服属させた。公孫淵討伐成功の副産物。

五丈原の戦いの後、司馬懿は大功を挙げる。 公孫淵討伐により、「倭」という、「中華圏内」の国を 服属させた。倭に親魏倭王の称号を贈る。 我々は、邪馬台国の由来や場所などでこの歴史に注目する。 卑弥呼の存在だったり、日本の由来をたどりたくなる。 し…

諸葛亮の評価に司馬懿の評価が比例する。

結局のところ、司馬懿の視点から見ると、 表題の通りになる。 諸葛亮(諸葛孔明)の評価が上がれば上がるほど、 それを撃退した、司馬懿の評価が上がることになる。 現実的には、手堅い諸葛亮の打ち手に対し、 手堅い現実的な対応を司馬懿がしたという結果に…

司馬懿の専守防衛は魏明帝曹叡の勅命~諸葛孔明第五次北伐~

魏にとっては、 二方面から攻撃を受けることになる。 呉が合肥と襄陽を攻撃、蜀が五丈原から長安を伺う形。 東西の端に攻撃を受ける形となる。 軍勢を三方面に分けなくてはならない。 これに対して、魏明帝曹叡は下記を親裁した。 魏明帝曹叡が全て決めたこ…

漢中に戻るつもりはない~諸葛孔明第五次北伐~

234年2月褒斜道を通って魏へ出兵。 ルートは④である。 ーーーーーーーーーーーーーーー 漢中から魏を攻撃するには以下の7つのルートがある。 ①祁山経由 ②故道・大散関・陳倉経由 ③褒斜道・陳倉経由 ④褒斜道・五丈原経由 ⑤太白山(海抜3767メートル)をか…

儒家思想は、究極のボトムアップ。

儒家思想。 修身斉家治国平天下 と 革命。 ボトムアップと個人主義。 王者を支えるべしという使命感と、 天命が去った帝王は革命により変えるべしという 究極の実力主義を内包する。 一つにまとまれと、 無能は滅ぼせ。 対局的なことを言っている。 つまり国…

蜀科(蜀漢の法)の制定~諸葛孔明 厳しい法治主義 法家思想に立つ~

後世、蜀科と言われる、法制度を蜀漢は制定している。 建国早々に着手、起草、制定している。 これは、見逃されがちだが重要な事実だ。 蜀漢が建国前から法家思想に立っていた政権であることを 立証している。 携わったのは、 諸葛亮、法正、伊籍、劉巴、李…

李厳の反対を押さえ込んで、諸葛孔明、満を持しての第五次北伐

諸葛孔明は234年に3年休んで、満を持しての第五次北伐を敢行する。 第四次から間が空いた理由、それは声なき反対派がきっかけだった。 蜀漢は、 227年の12月に魏に対して軍旅を起こしてから、 231年まで5年連続魏と干戈を交えている。 連戦に次ぐ連戦。 国力…

三国時代は法家と儒家の思想対立の過渡期

実は三国時代というのは、 この、法家を採るか、儒家を採るかという 歴史的な思想対立の過渡期にある。 この振幅、振り幅が政治体制を決める。 春秋時代末期から、 隋の煬帝が登場するまで、 この対立は続く。 わかりやすく言うと、 秦の始皇帝は、法家思想…

魏の曹丕の弟排除、曹叡の近臣重視は同じく皇帝権の強化

曹丕が弟を排除したことは よく批判される。 曹彰・曹植を洛陽に留まるのを許さなかった。 曹叡は皇帝独裁を目指した。 中書監劉放、中書令孫資の二人を中心に、 曹叡は独裁を行なった。 これらは同様の意図だ。 曹丕は、皇帝独裁を志向するため、 それぞれ…

諸葛孔明 北伐考 これ以上があったのか。

やりきるとは何かを、 諸葛孔明の北伐は教えてくれる。 内政充実、 幅広い外交、 大胆かつ慎重な対魏戦略。 遼東の公孫淵に騙され、 蜀漢との同盟以外効果的な外交ができなかった、 呉の孫権と対照的である。 諸葛孔明の北伐、 何度も繰り返し読むと味が出る…