司馬師・司馬昭
王莽以来の禅譲に際して、 九錫のみが共通項である。 諸侯の最高位(王号など)は共通ではない。 政権における最高執権位(宰衡、丞相、相国など)も共通ではない。 孫権はこのような特別な最高執権位についていない。 九錫のみが共通項である。 禅譲直前の…
司馬昭以前に九錫を受けたのは、 王莽・曹操・孫権である。 司馬昭含めて四者を比較する。 比較すると、司馬昭が輿論形成に腐心していたことがよくわかる。 ●王莽の場合: 足掛け9年、九錫を得てから4年で禅譲である。 大司馬に就く前に王莽は左遷されていた…
司馬昭、逡巡の10年。輿論に惑う。 人が好く、万人は使えやすいが、司馬昭本人は心労が絶えない、10年だった。~司馬師死去からの10年間、司馬昭の軌跡を辿る~ 255年正月の次の閏月司馬師死去。司馬昭が後を継ぐ。 ⇒突然の辞退。司馬昭の息子司馬攸が司馬…
司馬昭の蜀漢討伐から、晋王就任、そして長子司馬炎の禅譲までを、時系列で見る。263年9月に長安を発した鍾会の軍勢は、 翌10月に早々に漢中エリアを掌握する。 それを受けて、 263年10月22日 司馬昭、晋公となる。 晋公領は、以下10郡。-------------------…
・思想的背景 儒家皇帝、劉氏のみ皇帝論、 ・蜀漢は魏のアンチテーゼ ・陳寿の著作 ・漢皇帝としての行為。 (ないとよく言われるがある。) ・劉禅は何故早々に降伏したのか。 やりきったこととこれ以上被害を拡大しないため。 上記5点から劉禅を肯定するこ…
司馬昭にとって、 蜀漢討伐の成果は漢中制圧までで十分であった。 捷報が続き晋公に推戴される。 とあるが、 これは漢中制圧の功績だ。 やはりこの視点から見ても、 蜀漢討伐に司馬昭が親征しようとしていたとは思えない。 漢中制圧で御の字なのだ。 これ以…
鍾会反乱の理由は、 司馬昭の評価ミスである。 ●鄧艾は蜀漢討伐に反対であった。 ●実は、鄧艾は初戦で作戦を失敗している。 ●鄧艾は寒門、鍾会は名族である。 ●鄧艾は、鍾会に配慮は全くしていない。 ●鍾会は、10万の軍勢で、軍監衛瓘が従軍している。 鄧艾…
司馬昭 王莽への道 唯一の救いの手段 皇帝弑逆ゆえ禅譲しか道がなくなった。 中途半端に終われば、司馬昭および司馬一族は、 梁冀・董卓のように滅びるのである。 禅譲・禅代を進めるには、際立った功績が必要。 魏の正統性を真っ向否定する蜀漢の討伐が本来…
司馬昭は後がなかった。 ここで王莽の道を取らないと、 最終的には自身もしくは子孫は滅びる。 そのぐらい、中国の思想というのはしっかりしている。 現時点で、司馬昭は、梁冀・董卓に並ぶ。 皇帝を弑逆している。梁冀・董卓は毒殺だが、 司馬昭は自身の命…
賈充の曹髦弑逆(260年)で、司馬昭は禅譲への道を歩まざるを得なくなった。 分かりやすい実績を挙げることが必要となった。 そこで挙がったのが、蜀漢の討滅である。 司馬昭は兄司馬師の死で、突如司馬氏を 担うこととなった。 司馬昭は誰とでも広く付き合…
どうも賈充を引き上げたのは、 司馬師のようである。 毌丘倹の乱の折、討伐に従軍している。 司馬氏サイドで賈充が登場するのはこれが初めてとなる。 司馬師は当時大将軍の位にあった。 大将軍は、開府することができる。 大将軍自身の幕僚を抱えることがで…
賈充を引き上げたのは、 司馬昭の後継者問題だ。 司馬昭は司馬攸の正妻に、賈充の娘を迎えている。そのタイミングは258年5月以降260年5月以前だ。 司馬昭の息子に、 司馬攸という人物がいる。 司馬昭は、司馬攸を後継者にしたかった。 賈充は司馬攸の婿にな…
司馬昭は、流れに乗る他なかった。 元々ビジョンがあったとは考えられない。 司馬懿の怒りは正始政変を引き起こした。 晩年を迎えた司馬懿の最後の一手だったかもしれない。 後を継ぐ司馬師の、後継体制を見据えたうえでの一手だったかもしれない。 いずれに…
司馬昭は、私は人が好い人物だったと考える。 理由は下記三点である。 ①諸葛誕の乱で、賈充に騙される。 ②曹髦を賈充が弑逆しても、賈充を罰することができない。 陳泰に慌てて相談し賈充を殺せと言われたにもかかわらずだ。 ③蜀討伐を鍾会に勧められ、実行…
諸葛誕が反乱を起こす必要がない理由: ------------------------------------ ①諸葛誕は実は司馬氏の姻戚である。 ②司馬昭は、玄学清談に理解があった。 ③つまり曹爽や夏侯玄も理解があった。 ④諸葛誕は夏侯玄と親しかった。 ⑤諸葛誕の揚州諸軍事任命は、実…
諸葛誕が反乱を起こす必要がない理由: ------------------------------------ ①諸葛誕は実は司馬氏の姻戚である。 ②司馬昭は、玄学清談に理解があった。 ③つまり曹爽や夏侯玄も理解があった。 ④諸葛誕は夏侯玄と親しかった。 ⑤諸葛誕の揚州諸軍事任命は、実…
諸葛誕の乱は、司馬昭にとって余分だった。わざわざ起こしてしまった反乱だ。 起こす必要も、起きる道理もなかった。 その理由は、下記6つある。 ①諸葛誕は実は司馬氏の姻戚である。 ②司馬昭は、玄学清談に理解があった。 ③つまり曹爽や夏侯玄も理解があった…
255年に揚州諸軍事の毌丘倹が寿春で反乱を起こす。 この毌丘倹の反乱は、 本来当然のものである。 司馬師は霍光・梁冀・董卓と同じことをしたのだ。 司馬師の行為に対する、 毌丘倹の反対は本来当然のことである。 しかし、時代が変わりつつある。 皇帝廃替…
司馬師は李豊の変の後7ヶ月の逡巡の上、 皇帝曹芳を廃した。 これは非常に大きな歴史的転換点である。 司馬師は、 漢の三大悪人霍光・梁冀・董卓と同じ 皇帝の廃替を行なったにもかかわらず、 多数の名族の支持を受け成功させた。 霍光は霍去病の異母弟であ…