歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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西晋

304年8月司馬穎、鄴の失陥、305年7月司馬越挙兵

司馬越の逃亡、司馬穎の逃亡。 305年7月の司馬越の挙兵が 八王の乱を終わらせる。 【司馬越逃亡、司馬穎逃亡】 【鄴の掠奪】 【司馬穎の失脚】 【司馬越挙兵】 【司馬顒の反抗】 【司馬越、政権掌握】

304年7月蕩陰の戦い~恵帝親征の意味とその後~

蕩陰の戦いが西晋の運命を決める。 恵帝の親征の意味と、 司馬越の戦下手。

304年7月蕩陰の戦いが、戦乱を中華全土へと拡大する。恵帝・司馬越 vs 司馬穎・司馬顒

運命の蕩陰の戦い。 恵帝・司馬越 VS 司馬穎・司馬顒。 皇帝と世継ぎの戦い。 歴史上稀有な戦いである。 奇襲によりあっけなく終わる。

八王の乱が終息した307年 生き残った王は?

生き残ったのは、 1.司馬越 2.司馬睿 3.司馬澹 東晋元帝司馬睿は司馬越勢力である。

司馬穎・司馬遹 出自が悪いと何が悪いのか=畠山義就、豊臣秀吉からたぐる=

出自の悪さは歴史上頻繁に差別される。 畠山義就、豊臣秀吉から、 出自が悪いという差別は何を意味するのか、を考えたい。

司馬乂・司馬穎の兄弟喧嘩〜303年〜 正論を述べる司馬乂、人間らしい司馬穎

司馬冏が滅びると、司馬乂と司馬穎の兄弟喧嘩である。 兄弟喧嘩の背景 兄弟喧嘩が政局に与える影響 兄弟喧嘩が軍事衝突を引き起こす。 司馬越の裏切り 兄弟喧嘩の背景 これも西晋と言う時代の縮図である。 出自が良く、漢籍を収め儒教的経典の教養を身につけ…

司馬穎政権の仲間割れ 司馬越の後悔〜304年〜

司馬穎政権 全く支持が得られないその理由: 司馬越たちの後悔 さて、司馬越が司馬乂を裏切ってくれたことで、司馬穎はようやく政権を奪取できた。【司馬穎政権】-------------------304年1月28日司馬乂は司馬越の手により、火炙りに処され、殺された。司馬…

出自が似通いウマが合う、司馬穎と恵帝皇太子司馬遹。

司馬穎は恵帝の皇太子司馬遹と仲が良かった。 理由は二つある。 ①年齢が近いこと ②両者の母の出自が卑しいこと ①年齢が近いこと 司馬遹は278年生まれ、司馬穎は279年生まれである。 ②両者の母の出自が卑しいこと 司馬遹の母は、屠殺業者の家の出身で、…

武帝司馬炎の男子、尋常でない夭折率 三分の二が夭折

成人できた武帝司馬炎の子: 夭折した武帝司馬炎の子: 宮中での暗闘は彼ら成人した武帝司馬炎の子とその身内で行われる。 武帝司馬炎の子は下記の通りである。 ------------------ 武帝司馬炎の男子は、26人いる。 うち、夭折したのが17人いる。成人し…

司馬穎「いけしゃあしゃあと理屈を説いてくる兄司馬乂などと組めるか!」 八王の乱唯一の兄弟喧嘩 八王の乱⑯

八王の乱唯一の兄弟喧嘩 司馬乂 対 司馬穎 司馬穎「いけしゃあしゃあと理屈を説いてくる兄司馬乂などと組めるか!」 ①司馬朗家(司馬威) ②司馬馗家(司馬越) ③司馬孚家(司馬顒) ④司馬肜 ⑤司馬倫 ⑥司馬伷家(司馬睿・司馬澹・司馬繇) ⑦司馬駿家(司馬歆…

八王の乱⑮ 言い出しっぺと実行者が異なることで対立が生まれる。司馬穎 司馬乂

①司馬朗家(司馬威) ②司馬馗家(司馬越) ③司馬孚家(司馬顒) ④司馬肜 ⑤司馬倫 ⑥司馬伷家(司馬睿・司馬澹・司馬繇) ⑦司馬駿家(司馬歆) ⑧司馬攸家(司馬冏)司馬師家でもある。 ⑨司馬允 ⑩司馬乂 ⑪司馬穎 302年12月に司馬冏が敗死すると、 プレイヤーは…

八王の乱⑭ 司馬倫挙兵のリーダー・司馬冏に対する司馬穎の嫉妬

司馬冏と司馬穎は並び立つのか: 司馬肜・司馬伷家・司馬駿家・司馬乂の帰趨: 301年4月時点: 【司馬冏政権】---------------------------------------- ①司馬朗家(司馬威) ②司馬馗家(司馬越) ③司馬孚家(司馬顒) ④司馬肜 ⑤司馬倫 ⑥司馬伷家(司馬…

八王の乱⑬ 狭義の八王の乱(301-306年)の各プレイヤーについて

宗族のプレイヤーは司馬倫クーデターの時点でこれだけいる。 ①司馬懿の兄弟世代→司馬朗家・司馬馗家、司馬孚家 ②司馬師・司馬昭の兄弟世代→司馬肜・司馬倫・司馬伷家・司馬駿家 ③武帝司馬炎の兄弟世代→司馬攸家 ④恵帝の兄弟世代→恵帝自身・司馬允・司馬乂・…

八王の乱⑫ 司馬倫の賈后打倒は宗族クーデターである。

司馬倫のクーデターは 賈后に対する宗族クーデターだった。 西晋の皇族である、河内司馬氏には、 八王の乱の時点で、 四つのカテゴリーの勢力がある。 そしてそれはそれぞれ家の単位で自己防衛を図る。 ①司馬懿の兄弟世代 ②司馬師・司馬昭の兄弟世代 ③武帝…

八王の乱⑪ 司馬倫の「簒奪」は決して独り善がりの行為でもない。

司馬倫は司馬允を打倒したのち、 恵帝から九錫を受ける。 これで司馬倫は、趙王・相国・九錫・(都督中外諸軍事)となる。 この三つが揃うことの意味は、皇位禅譲の王手である。 これは王莽、曹操、孫権、司馬昭に続く、史上四人目のことである。 司馬倫が宗…

八王の乱⑩ 賈后を滅ぼした司馬倫・孫秀は本性を露わす。

【司馬倫政権】----------------------------- 司馬倫は賈后を間接的に嵌め、 皇太子を殺害させて、皇太子を殺害した賈后および賈氏一派の 打倒を掲げて、政権を奪取した。(300年4月) その謀主は、司馬倫である。 司馬倫は、西晋高祖司馬懿の第九子で、末…

司馬倫と司馬穎の共通項。

司馬倫と司馬穎の共通項。 司馬倫と司馬穎は八王の乱を勝ち切れなかったものの、 強い勢力を持って八王の乱を戦った。 司馬倫は、恵帝から皇位を簒奪し、皇帝にまでなる。 司馬穎は、司馬倫を倒した司馬冏を打倒し、皇太弟になる。 両者とも一度は国権を押さ…

西晋恵帝の謎

恵帝暗愚論に隠された秘密 西晋恵帝の実態 北宋司馬光の西晋恵帝暗愚偽装論 西晋恵帝 実態のまとめ 恵帝の、賈后への感謝。賈后の、恵帝への感謝。 西晋恵帝 三つの時期から実態を考察する。 恵帝暗愚論に隠された秘密 恵帝は暗愚だ、暗愚だと言われる。 あ…

司馬馗家の司馬越、司馬孚家の司馬顒。~傍系の大族~

司馬馗家という単位、司馬孚家という単位で見ると、 司馬越、司馬顒の立ち位置がわかる。 西晋の宗族は、 司馬八達世代 司馬師・司馬昭兄弟 司馬炎兄弟 司馬炎の子供世代 それぞれが家を作り結束して動く。 これは原則となっている。 司馬懿、司馬師、司馬昭…

石崇が「賈謐二十四友」を作った。

賈謐二十四友は粒揃いである。 哲学者、文学者、詩人、文化人が揃いに揃っている。 血筋の良い者もいて、武帝の子の舅になっている者もいる。 武官の者もいて、西晋に殉じた者も多い。 当時を代表する傑物ばかり集まっている。 しかし、 賈謐二十四友と言う…

八王の乱⑦ 賈后が政権を獲るまで 楊氏から司馬亮滅亡まで

ーーーーーーーーーーーーーーーーー 【楊駿政権】ーーーーーー 290年4月世祖武帝司馬炎崩御。 恵帝即位。 外戚弘農楊氏の楊駿が後見。(後漢の名臣楊震の末裔ということになる。) 楊駿は、太尉、太子太傅、都督中外諸軍事、侍中、録尚書事。 非常に緊迫感の…

賈充と羊祜

賈充は非常に人間臭い人物である。 このような人はいないだろうか。 強い劣等感を持って歯を食いしばりながら、 我慢をし嫌な仕事をして上長にも嫌な顔をせずに 従う。 とはいえ、元々能力があるので、 高い実績を挙げることができ昇進する。 しかしながら、…

八王の乱を楽しむ⑥ 歴史の終わりであり始まりである八王の乱

八王の乱の楽しみ方。 中国史上の中で、 著名にも関わらず最もわかりにくい事変の一つだ。 その理由は多々ある。 ・登場する人物が司馬某が多く、誰が誰だかわからない。 ・そもそも西晋に対しての興味が湧きにくい。 ・八王の乱の結果がより一層混迷するの…

八王の乱⑤ 司馬倫・司馬越は皇位を主張できない。

【誰が西晋の天命を受け継ぐかによって、大義名分が変わる】 300年に恵帝の皇太子(愍懐太子)司馬遹が賈后に殺されてから、 諸王は皇太弟になる形で、権力を握ろうとしてきた。 しかしながら、争いに勝ち切った、司馬倫と司馬越は、 それができない。 恵帝…

八王の乱④ 司馬越の偽善から始まる利己主義

司馬越の登場が、西晋の命運を決める。 繰り返しになるが八王の乱はまとめると下記の通りである。 --------------------------------- 賈后がきっかけとなり、 司馬倫が宗族争いへと発展させ、 司馬越が勝ち残ったが、西晋は分裂した。 そこを劉曜と石勒が突…

八王の乱③ 司馬倫がきっかけで以後は宗族同士の争い

司馬倫の狡猾かつ巧妙な策謀が賈后を滅ぼす。 --------------------------------- 賈后がきっかけとなり、 司馬倫が宗族争いへと発展させ、 司馬越が勝ち残ったが、西晋は分裂した。 そこを劉曜と石勒が突き、西晋は滅亡したのである。 --------------------…

八王の乱② 概説 ~外戚同士、宗族同士の同士討ち~

八王の乱の大枠をまず簡潔に記したい。 --------------------------------- 賈后がきっかけとなり、 司馬倫が宗族争いへと発展させ、 司馬越が勝ち残ったが、西晋は分裂した。 そこを劉曜と石勒が突き、西晋は滅亡したのである。 --------------------------…

八王の乱① 極力端的に記す。

非常に登場人物の多い八王の乱。それが非常に短い期間で、混在し、 理解を妨げる。各人とも実績があって高位にあるわけではないので、 人物像も理解しにくい。ここでは、八王の乱を極力端的に記述し、 概論の理解に寄与したい。 私は広義の八王の乱は、291年…

賈充と羊祜に影を落とす西晋の呉討伐と禿髪樹機能の乱

西晋武帝司馬炎が、 対呉遠征を企図し始めたのは、 269年に羊祜を都督荊州諸軍事として、 赴任された頃からだ。 271年には裴秀が死去するが、 その際に残した建言として呉討伐を進言していることからもわかる。 羊祜は長らく、 中央にあって司馬氏の政権掌握…

西晋瓦解のシナリオは賈充の死から始まる。

282年に賈充が死去する。 最後は魯公にまで昇った。 曹髦弑逆の実行者のため「荒公」と諡名されそうになるが、 「武公」となった。対呉討伐の総司令官として中華を統一した賈充にふさわしい諡号である。 西晋政権の重鎮である 賈充が死去したことで、政権が…