歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬懿・司馬師・司馬昭の事績から紐解く「悪行」

司馬懿・司馬師・司馬昭は何故

評判が悪いのか。

事実から紐解く。

 

下記3点は批判される点はある。

つまりは権勢家としてうまく行き過ぎたということだ。


司馬懿

曹爽一派の打倒。

このとき郭太后を利用。(郭太后は魏明帝の皇后)

身の危険があったとは言え、権力争いの結果ではある。

 

司馬師

廃帝(斉王芳)の廃位。

斉王芳は、司馬懿が明帝から後事を託されていた。

郭太后を利用。

 

司馬昭

後廃帝(曹髦・高貴郷侯)の殺害。

春秋斉の崔杼や春秋晋の趙盾の例からすれば、

確実に司馬昭が「殺害」したことになる。

実際は指揮をした賈充なのか、

武器を振るって殺害した成済なのか、考え方の問題もあるが、

国家の大事なのでやはり責任者の罪であろう。

 

やはり郭太后に後追いで承認してもらう。

 

 

郭太后をうまく利用して、というか結果的に

騙したように見える。

一族として皇帝を二度廃位。前代未聞。

また二代続いてというのは前代未聞もこのとき初めてのこと。

 

前漢霍光、後漢梁冀ですら、

一人の皇帝を廃位したのみ。(それぞれ、昌邑王劉賀と質帝)

さらに霍光は子の代で族滅、

梁冀は廃位の後につけた桓帝と宦官により

殺害される。

呂后も一人の皇帝(少帝恭)を廃位。

その後呂氏は族滅。

よく事例に出る権勢家も、一族として見ても、

一人の皇帝の廃位が限界。それもその後族滅が基本。

 

実績から見て

暴虐・横暴と言われる当然と言えば当然。

本来、打倒されるべきだったが、しかしそうはならなかった。

魏王朝が徳がなかったと言えばそうで、

当時の百官の支持は司馬氏側にあったということだ。

実績からすれば悪行、

時代からすればこれが正しい道だった。