司馬懿父子(司馬懿とその子司馬師・司馬昭)の
悪名高さ。
なぜそうなったか、
大義名分から考えたい。
●なぜ悪名高く描かれるのか。
結論としては、西晋より後の王朝が、
漢(前漢・後漢)を基礎にした歴史観・大義名分を持っているためである。
3つの軸で説明したい。
①蜀漢正統論に立つ、明や現代では、諸葛孔明の北伐を防ぎ切った司馬懿、
また蜀漢を滅ぼした司馬昭を評価しない。中国史の流れとしては、大義名分がないと考える。
忠臣である諸葛孔明の前に立ちはだかった悪臣扱いだ。
魏や晋は漢王朝を滅ぼした元凶である。
この理論に立脚して、匈奴の劉淵が漢を建国(304年)する。
皇帝は劉氏のみであり、匈奴単于の末裔である、劉淵は、
古くは漢皇帝と通婚をしていて、劉氏(龍に通じる。)を名乗る資格があるというスタンスだ。
現代から見ると、チャイナの王朝は変遷するという考え方だが、
この当時は漢王朝の末裔だったり、劉氏のみしか名乗れないという考え方があった。
曹操の時代もそうで、例えば王粲(建安七子の一人。曹操を理想の上司として崇める詩がある。)から
「周公(旦)になってほしい」(つまり簒奪や禅譲を狙わず輔弼の臣となってほしいという意味)
と言われている。
魏や晋の禅譲は簒奪だ、認められないという立場である。
漢や前趙の後華北の覇者となった、後趙の石勒は下記のように言っている。
後趙の石勒
「曹孟徳や司馬仲達父子のように、孤児や寡婦を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」(晋書?)
孤児は後漢の献帝のこと、寡婦は魏の郭太后(明帝曹叡の皇后)のことである。
つまり騙したということだ。
魏晋が天下を騙して、皇帝位を簒奪したので、
異民族がチャイナを押さえるという理屈になる。
②東晋すら、西晋の禅譲を正統だとみていない。大義名分がない。
東晋の明帝(在位322年-325年)
王導から司馬昭・司馬炎の簒奪の経緯を知り、
顔を覆って「もし公の言った通りなら、どうして(晋の)皇祚を長く保つことができようか」(世説新語・南朝宋の劉義慶)
東晋の桓温(312年-373年)
「わしは芳名を残すこともできず、かといって景文(司馬師と司馬昭)の臭も残せんのか。」(世説新語・南朝宋の劉義慶)
東晋の英主・明帝は299年の生まれ。八王の乱の最中の出生だ。
父の元帝は王導に従い、江南に難を逃れる。
永嘉の乱の結果、最終的に長安の愍帝が漢(前趙)の劉曜(時の皇帝は昭武帝・劉聡)
に攻撃され滅亡(316年)。それを受けて元帝は東晋を建てる。その息子が明帝だ。
桓温は禅譲を狙っていたが、(息子の桓玄は禅譲を実現するがすぐに敗死)
叶わずに死去した。
桓温は洛陽を一度は回復する実力者である。
芳名というのは正統な禅譲を指すと思われ、その対義語として、
景文の臭を使っている。
「臭」という悪い意味合いの言葉を使用。
桓温の考えからすると、当時の東晋は簒奪王朝ということになる。
③この桓温の動きに対して、
東晋を正統とする考え方が作られる。
その一つの事例が「漢晋春秋」だ。
晋の司馬昭は、蜀漢を討伐した。(263年)
ここで晋であり司馬昭は、漢を受け継いだのであり、
なので魏から禅譲を受けた。(実際に受けたのは司馬昭の子・司馬炎)
なので、晋(西晋・東晋)は漢を受け継ぐという考え方だ。
桓温という権力者が出てきたことで、
この理論ができたと言われている。
晋(東晋)は正統である、漢を継いでいる。
だから禅譲というのはあり得ない、という
暗に禅譲を狙う桓温を批判し、禅譲自体を成り立たせない、
理論を作っている。
東晋は初めは自己批判をしていたのに、
桓温の禅譲の機運が高まると、自己正当化の大義名分を作る。
後世にも
東晋自体は非常に脆弱な王朝であった
理由を5つ挙げたい。
①そもそも亡命政権。
②江南の名族が力を持っていて、その力に頼らなければ何もできず、
③東晋を建てた元帝は即位前に名声がない。
④八王の乱はそもそも晋の皇族・姻族の争い
⑤そして晋の禅譲に疑義があるという風潮
東晋の存在自体に疑義がある、
北方政権は異民族だ、
という状態。統治をする大義名分の必要性を考えさせられる。東晋も、北方政権も、当地の大義名分がないのだ。
大義名分がなく、現実的すぎると、組織だったり国家だったりはまとまらないものなのだ。