司馬懿の経歴を事実からたどり、人物像を追いたい。
●179年に生まれる。司馬防の次男。本貫(本籍地)は河内郡温県。(洛陽から北に黄河を渡った先にある。)
「八達」の一人。字は仲達。
●201年 宮仕えを始める。
荀彧の推薦。
荀彧が推薦した人物はほかに、
鍾繇・陳羣がいる。
司馬懿は曹操の登用に対して、仮病を使って逃げたというエピソードがある。
曹操は仮病なら殺せというが、果たしてどうだろうか。
※郷挙里選・・・
官吏登用法。各地方の有力者が、自分の管轄下や地元から能力のあるものを推薦する。
前漢武帝の時、董仲舒の建言により開始。
220年の陳羣建議による九品中正法(九品官人法)まで続く。
※荀彧・・・荀子の子孫(後漢書)。有名な、曹操からの空弁当を賜与されて、
自殺するというエピソードの出典は「魏氏春秋」(孫盛著)。
少々芝居がかっている気もする。
子の荀顗(ジュンギ)などは西晋への禅譲に大きな貢献をしている。
西晋禅譲への風当たりが強い時代の荀氏一族の言い訳のような気もするが。。
※鍾繇・・・
「新唐書」では、楚漢戦争時の楚の将軍鍾離昧の子孫。
長安・関中を統治、最終的には相国まで昇る。
※陳羣・・・
後漢の陳寔(清流派の代表格)の孫。
魏の法律・魏律と九品中正法を策定した。
曹丕は、陳羣を孔子の高弟顔回になぞらえて称賛した。
●208年 漢の丞相である曹操の幕僚となる。
(赤壁の戦いの年。曹操としては前年の烏桓討伐で華北を治め切ったタイミング。)
役割は、参謀と曹丕の世話役であった。
司馬懿にとっては曹操よりも親密度が深い、曹丕(187年-226年)との接点がここで生まれる。
司馬懿は曹丕より8歳年上。
●215年 曹操の張魯攻略時、曹操に蜀に入った劉備の討伐を進言する。
曹操は光武帝劉秀の故事「隴を得て蜀を望む(望蜀)」を持ち出して、司馬懿の進言を退ける。
当時、劉備は蜀を制圧したばかりであった。
●216年 曹操が魏王に昇る。合わせて太子に立てられた、
曹丕の太子中庶子(太子の秘書)となる。
曹操は自身の幕僚とせず、曹丕につけた。
曹丕は後年司馬懿を高く評価する。曹丕の方が相性がよかったのだ。
●217年兄司馬朗死去。当年流行した伝染病にやられたと思われる。
(司馬朗の家は、三弟司馬孚の子司馬望が継ぐ)
●219年父司馬防死去
●220年正月曹操死去。魏王までに留まる。
司馬懿は丞相府(丞相は曹操だった)の司馬として
曹操の葬儀を取り仕切る。
もちろん喪主は曹丕。曹丕の信頼があった。
●220年10月漢魏革命。
曹丕が後漢献帝から禅譲される。
司馬懿は陳羣とともに尚書台の2トップとなる。
陳羣は魏の法律や官吏(官僚)の登用法を策定する文官のトップ。
それと対になったのが司馬懿。
司馬懿が曹丕に信任されたことが、
司馬懿の栄達につながったことを強調したい。
司馬懿はとかく曹操との比較をされがちで、
曹操に嫌われたとか、独立心を疑われたというエピソードが多い。
司馬懿は豺狼の相(首が180度曲がったらしい)だったという話にしても、
話としては、面白いが、果たしてどうだろうか。
純粋に曹丕の幕僚となってからの栄達は注目に値する。
私は、司馬懿に関して、現実的な人間と考える。
司馬懿の、儒家や法家、軍事的知識(曹操に従軍できるのだから多分孫子)に
関する高い知識に裏付けされた現実的な対応、助言が
曹丕に響いた。
※下記は司馬懿の本貫(本籍地・出身地)の温県の場所
(出典 西晋の武帝 司馬炎 福原哲郎氏著 白帝社)
