歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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魏文帝曹丕から前漢の名臣蕭何になぞらえられた司馬懿

曹丕の言葉:

「私が東方に向かうときには、

撫軍(司馬懿のこと)は

西方のことを統括せよ。

私が西方に向かうときには、

撫軍は東方のことを統括せよ」


魏文帝曹丕の信任を得ていた、

司馬懿は、漢魏革命により、

陳羣とともに

魏王朝のトップとなる。

 

225年にはこれも陳羣とともに録尚書事(魏の宰相ポジション)に就任、名実ともに人臣としての

位を極める。

 

陳羣は文官として、

主に法律を含めた

諸制度の立案・整備を行なった。

 

一方司馬懿は、

軍事であった。

 

魏文帝曹丕は、

224年・225年に連年呉に

親征している。

 

その際、首都洛陽を司馬懿に

任せる。

魏文帝曹丕は司馬懿を

後方の留守居役として全権を預けた。

 

司馬懿の晩年、曹爽に対して

クーデターを起こした時は、

曹爽が洛陽を不在にしているときでそれを考えるときに、

この魏文帝曹丕の判断は

相当に司馬懿のことを

信頼している証である。

 

司馬懿の息子である、

司馬師・司馬昭は、

こうした経緯があるので、

司馬師は自身の寿春遠征時は

司馬昭に洛陽を預ける。

また司馬昭は洛陽を空けることはなかった。

 

魏文帝曹丕の呉親征時に、

司馬懿に後方を預けるという意向に対して、

司馬懿は一度辞退している。

光栄すぎると。

 

しかし魏文帝曹丕は、

「仕事は山積している。

昼も夜もない状況だ。

休む暇もない。

昇進は栄誉なのではなく、

私の憂いを分けるだけである。

と返し、

前漢の蕭何が長安にあって

中原で項羽と戦う劉邦を支援したエピソードを出して、

曹丕自身の蕭何になって欲しいとしている。



司馬懿は、王朝の祖としては、

後年非常に評判が悪い部類であるので、

こうした絶賛されたエピソードというのは

文字通り信じていいと

私は考える。

 

しかしながら、

司馬懿を位を人臣を極めるほど

引き上げてくれた、

魏文帝曹丕は226年に

突然崩御する。40歳であった。