着実、現実的、確実な戦略目標を持って組み上げていく、
諸葛孔明の北伐。
諸葛孔明の蜀魏の彼我の分析の結果と私は見る。
鍵は騎兵を沢山持つ異民族の保有にあった。
漢中から魏を攻撃するには以下の7つのルートがある。
①祁山・隴経由
②故道・大散関・陳倉経由
③褒斜道・陳倉経由
④褒斜道・五丈原経由
⑤太白山(海抜3767メートル)をかすめての駱谷道経由
⑥子午道・長安へまっすぐ
⑦漢水沿い・魏興郡経由
※太白山はチャイナプロパーでは最高峰。全土となるともちろんチョモランマになる。
※故道・・・秦が漢中を獲得すると、褒斜道に蜀の桟道を作り、
これがメインルートになった。それに対しての、
昔の道という意味の「故道」である。
高祖劉邦は、この道を使って漢中から渭水盆地へ進出、成功した。
※暗渡陳倉・・・褒斜道の蜀の桟道を焼いて、渭水盆地を攻撃しないと見せて、故道経由で陳倉を攻撃して、渭水盆地に侵入。
長安を落としたという高祖劉邦の古例。
この古例は、魏蜀両サイドの戦略立案に
大きく影響を与えた。
趙雲の褒斜道経由の陽動作戦は、
暗渡陳倉にならっている。
高祖劉邦本隊は、②のルートを使う。
今回は諸葛孔明がどこを使うか。
漢中⇄渭水盆地・長安の攻撃ルートは、
事例でいうと三つある。
①前漢高祖劉邦 ②のルート
②後漢光武帝のときの来歙 ①のルート
③曹操 張魯攻撃 ②のルート
※戦国時代、秦の恵文王が漢中を攻略したが、
騙し討ちと伝わるので、今回は除外。
高祖劉邦は②のルートで一挙に長安を獲得した。
韓信の献策による。
有名なエピソードだ。
蕭何に推薦された韓信。
項羽を婦人の仁、匹夫の勇と断じる。
天下はまとまっていない。
渭水盆地(秦の本拠地)に封じられた三人の王(章邯・司馬欣・董翳)
は、項羽に降伏した際に20万人の秦の兵士を見殺しにしている。
そのため、秦の民からの支持がない。
見殺しにされた兵士の家族が秦の渭水盆地に暮らしているのに、
この三人の王が秦を支配していたのだ。
恨まれるに決まっている。
そのため渭水盆地は攻めるにたやすい、という韓信の分析だ。
この古例を当然知っていたはずの
諸葛孔明が自身の生きた現在をどう分析したか。
韓信が項羽陣営を分析したように、
諸葛孔明も魏陣営を分析したはずだ。
項羽のときほど隙があったか。
結果として、魏文帝曹丕は、
項羽の轍も、
史上初めて禅譲をして失敗に終わった王莽の轍も
踏まなかった。
呉討伐は拮抗して進捗しなかったが、
魏の国内はよくまとまっていた。
群臣の層も厚く、乱れがない。
よく言われるのは、
⑥のルートを主張した魏延の献言をなぜ受け入れなかったのかという
諸葛孔明批判だ。
韓信が言うような状況が、当時の魏に当てはまっていたのであれば、
奇襲に近いこの作戦を使うか可能性はあった。
慎重で手堅い手法を選ぶ諸葛孔明ではあるが、
だからこそこのルートでの作戦も考えたであろう。
大失敗したら、後がない蜀漢。
人口比で見たら、4倍の魏を攻撃する蜀漢。
人口はイコール国力と見ることができる。
この大博打ができるのは、
創業のトップ、劉邦や劉備でなくてはできない選択肢と
私は考える。
②のルートは、魏の上層部も当然していたであろう、
暗渡陳倉の古例を意識して守りを固めていたはずである。
また曹操の漢中張魯討伐も
この②のルートを使っている。
雍涼州諸軍事として長安に駐屯していた曹真が、
蜀からの攻撃を受けた際のシミュレーションをする際に、
はじめに考えたシチュエーションは②のルートからの攻撃であろう。
諸葛孔明が選んだルートは、
①で祁山経由で隴までを押さえるという作戦だった。
これは後漢光武帝の時に、
来歙が使ったルートだ。これは、
隴に隗囂が割拠していたため、
隴関を出て隗囂を攻めた。
祁山を越えて陽平関経由で蜀の公孫述を攻撃した。
(来歙自身は武都郡の下弁で暗殺される。)
諸葛孔明らしい手堅い手法で、
かつ魏にとっても意外性のある作戦であった。
諸葛孔明は奇襲が成功するほど魏は乱れていない、
まとまっていることを認めた上での作戦であった。
現実的な選択肢であった。
街亭を押さえ、隴関を閉じることができれば、
作戦は成功した。渭水盆地から隴山を抜ける道はこの二つのルートしかない。
隴や武都・陰平にいた、
氐・羌・戎の異民族を従え、
強兵を持って魏を打ち破れたのかもしれない。
姜維は名前からして、どう考えても羌族だ。
太公望姜尚と同じ。
第一次北伐では、羌族を魏から離反させた。
第三次北伐では、武都・陰平を魏から確保し、
氐・羌を服属させた。
実は諸葛孔明の北伐には異民族の影がちらつくのである。
またこのとき、第一次北伐の失敗から自ら
丞相位から三階級下げて右将軍となったのが、
再度丞相に復帰している。
武都・陰平の制圧というと、
何か大したことのない功績に見えるが、
異民族を従えたというのは名実ともに
相当な功績だった。漢の武帝以来異民族討伐は
正統の証であるし、騎兵を多く持つ異民族を
服属させることは軍事力の大幅な大幅な増強につながった。
魏延の策を入れなかったことを批判するのは、
諸葛孔明の北伐が成功できなかったやるせなさを
晴らす矛先だ。
それなら私も同感である。