歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

中国史における1000年に渡る覇道と王道の対立=法家と儒家の対立

秦漢時代から魏晋南北朝の終わりまで、

政治の底流にある、対立軸が

法家思想と儒家思想の対立だ。

隋唐における律令政治の完成がその終止符を打つ。

鮮卑系の隋唐が漢人の復古思想への憧憬を叩き壊す。

 

 

少々意外かもしれないが、

諸葛孔明は法家思想に立って、

蜀漢を統治、まとめ上げた。

ただし、南中郡の南蛮討伐では、

まさに儒家思想を使った討伐の仕方で

心服させており、両者の思想を

理解していた。

 

魏は、法家思想に立って統治したかったものの、

自領が歴史ある中原に位置するため、

儒家思想にも一定の配慮をする必要があった。

 

法家と儒家。

法治主義と徳治主義。

刑罰と礼法。

性悪説と性善説。

皇帝権と豪族・貴族・士大夫。

トップダウンとボトムアップ。

 

これらはすべて同じ対立軸である。

 

これらの対立軸は春秋時代の終わりから始まり、

隋の成立により終わった。

 

西周から春秋時代前期までは徳治主義であったが、

春秋時代末期から法治主義が重視されるようになった。

戦国時代に入ると、

法家主義は富国強兵策として、

もてはやされ、それは秦の始皇帝の時代、

ひとつの全盛期を迎える。

しかし行き過ぎた法家思想が秦の崩壊を加速させ、

前漢の成立へと至る。

 

高祖劉邦は、儒家を嫌った。

儒家の冠を取り上げて、中に小便を垂れたというのは

有名な話であるが、

酈食其(れきいき)や陸賈の必死の説得に

劉邦は儒家の効用を認めた。

 

陸賈の考えは、

「秦が天下を統一した後、

古代の聖王を見習って、徳治主義をとっていたら、

陛下(高祖劉邦)は天下を取れなかった」

というものだ。

 

天下統一後は、

徳治主義を採るべし、

争乱が収まったのだから、

王者の振る舞いとして儒家思想で

天下を治めるべしという

考えがここにある。

 

 

徐々に実力主義になっていった春秋時代。

それまで徳治主義に則って運営してきた。

上を立て下は身の程を知る。

身分に応じた振る舞いをすることが前提。

それが、徳治主義の本拠・魯国でさえ、

主君の殺害や臣下の専横などが目立つようになってきた。

 

中原の中央に位置する鄭は、南北に晋と楚という両大国に挟まれることから、

国内がまとまらず、大臣がそれぞれの意思で、

どちらの両大国に付くかを判断する状況。

 

そうした中、鄭の子産は、中国のみならず世界で初めて

成文法を制定した。(前536年)

青銅器の鼎に鋳込んだのである。

 

これは、言行一致を明確にして、鄭の君主権を復活させるのを

狙ったものである。

それぞれの行動に任せるのではなく、

トップである君主権の言行一致で、権威を取り戻そうとした。

これが法家思想の始まりである。

 

鄭子産は、各国の大夫から厳しい批判に晒された。

そもそも大夫の高い意識、いわばノブレスオブリージュが、

国家を支えるものであり、領導すべき大夫が、

刑罰も決めていた。

それぞれの時宜に応じて、適切な大夫が適切に判断するという

ものであった。

しかし、それに頼れなくなった鄭子産は、成文法によって、

国家の権威を復活維持する仕組みを作ろうとした。

鄭子産と入れ替わるように時代に現れたのが

孔子だ。孔子は周の時代に立ち戻り、徳治主義の政治を

礼法を持って行うという主張をした。

しかし実力主義の時代になりつつあった当時には受け入れられなかった。

 

前453年からは戦国時代に突入、

完全実力主義となり、

今度は君主権の教化、中央集権が鍵を握る時代となる。

魏の李悝に始まり、商鞅など法家思想が

功を奏す時代となる。

 

荀子が性悪説を唱えた後、

その弟子である、韓非子が

儒家を踏まえて法家思想を具体化する。

 

韓非子は法家と区別されるが、

孔子→孟子→荀子→韓非子という系譜を継いでおり、

実はそもそも儒家と法家の

融合が韓非子なのである。

 

漢書および十八史略から、前漢宣帝の言葉を下記に引用する。

「宣帝作色曰、

漢家自有制度。本以覇王道雜之。

奈何純任教、用周政乎。

且俗儒不達時宜、好是古非今、使人眩於名實不知所守。

何足委任。

乃歎曰、亂我家者太子也。」

 

儒家を勧めてきた息子で太子である、のちの元帝に対しての

言葉である。

 

下記に意訳する。

宣帝は顔色を変えて、

「我が漢家には、漢家のやり方がある。

それは、覇道と王道を交えたものだ。

どうして儒教を使う、古代の周のやり方を用いる必要があるのか。

かつ、俗儒は時勢に合わず、古きを好んで現代を否定する。

人を惑わす。名目と実態に関して、

何を守るべきなのかを理解していない。

どこが政治を任せるのに適しているのか。」

宣帝は嘆いて、

「我が漢家を乱すものは太子である」

 

宣帝が太子・のちの元帝に対して、

怒り嘆く有名なエピソードである。

 

元帝は父宣帝の法家主義に則ったやり方を

批判したものである。

 

そもそも王者の政治というのは、

徳治主義、儒家思想の統治と考えられてきた。

 

元々は周公旦が中原を広く統治するためのやり方である。

周にとって中原支配の拠点魯国において、

その手法は連綿と伝えられてきた。

それを孔子がのちに儒教と言われるものにまとめた。

 

これは、王者である周王朝が、下々のものを教化するという

考え方だ。

礼を重んじ、国を律する。

 

しかし、儒家思想では、世が乱れる。

周は天下を保ち得なかった。

法家思想でも世は乱れる。

秦は天下を保ち得なかった。

 

それらの轍を踏まえて、

王道・覇道の両立が漢王朝である。

高祖劉邦はその方針をとっており、

宣帝も上記の引用通り、実践していた。

 

しかし、宣帝の息子元帝にになると、

儒家思想に振り切る。

そこで登場したのが王莽である。

 

王莽は儒家にとっては英雄である。

儒家思想の体現者であり、

王朝まで建て、周の古例に戻ろうとした。

 

現代から見ると非常に滑稽な王莽だが、

漢書を著した班固からは実は絶賛されていた。

 

当時の士大夫・貴族層には、

儒家思想が支持されていたことを暗に示している。

 

法家思想はどうしても君主権、皇帝権の強化につながる。

儒家思想はそれぞれの士大夫が身を慎むという考え方で、

個人主義につながり、個の独立につながるわけだから、

好まれる。

 

この対立軸は連綿と続くのである。

 

王莽を間接的に倒した後漢光武帝も、

宣帝を尊敬し、自分と重ね合わせながらも、

こうした儒家思想復古の風潮に配慮した。

 

光武帝は官吏登用制の

郷挙里選で孝廉を重視した。

孝廉とは、父母への孝行、物事に対してのクリーンさを

重視した。行政能力や軍事能力で判断するわけではないのである。

後漢においては、

儒家思想の色合いが濃くなるのである。

 

それが外戚の専横を招いた。

それに対抗するため、

皇帝権強化のため、宦官を用いた。

法家思想がない後漢では、

皇帝権を取り戻すために使えるのは、

宦官しかいなかった。

宦官とともに腐敗し、後漢は滅びた。

 

魏は、皇帝権を強化したかった。

しかし、豪族、徐々に貴族化する貴族という地方有力者に

反発をされる。

 

その代表格であり、諸貴族に推されたのが、

司馬一族である。

 

司馬一族は、その孝廉さでは定評があった。

 

265年に禅譲を成し遂げ、西晋を建国する。

280年呉を滅ぼし、天下一統を成し遂げると、

儒家思想に軸が動く。

ここまでは天下が定まっていないので、

法家思想に立った統治を行った。

泰始律令を定めている。

天下が定まり、安寧の時が来ると、

儒家思想、徳治主義、王道の政治をするというのが、

当時の主な思想だ。

 

西晋の武帝は、そうした思想の潮流に影響されただけである。

 

豪族、当時はもう貴族化してきているが、

その代表である司馬一族は、

皇帝になった。

 

皇帝となった当時は、

動乱のときである。法家思想に則って国家を統治した。

しかし、天下が収まったので、儒家思想に立った王道政治を行った。

 

西晋の武帝は、周と同じように、各地に武帝の親族(宗族)をそれぞれ封じた。

 

儒家思想なので、

各宗族、各貴族は力を持った。

分権化した。

 

皇帝権は相対的に減退する。

 

各宗族と各貴族は、

高い意識をもって振る舞うことが当然とされた。

 

しかしそうはならなかった。

すぐに腐敗した。

西晋二代皇帝恵帝の御代、

儒家思想の分権は、それぞれの権力軸の争いを連鎖させる。

 

西晋武帝の崩御を境目に、

外戚楊氏・賈氏の専横、

その後の八王の乱と、力を持っていた諸勢力の争いが連鎖、

西晋が瞬く間に滅亡する。

 

西晋武帝は、第二の王莽になってしまった。