歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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李厳の反対を押さえ込んで、諸葛孔明、満を持しての第五次北伐

諸葛孔明は234年に3年休んで、満を持しての第五次北伐を敢行する。

第四次から間が空いた理由、それは声なき反対派がきっかけだった。

蜀漢は、
227年の12月に魏に対して軍旅を起こしてから、
231年まで5年連続魏と干戈を交えている。

連戦に次ぐ連戦。
国力の4分の1に過ぎない蜀漢が、
これに耐えうるのが凄い。
諸葛孔明の凄さはここにもある。

しかし戦争というのは5年続けば、
和平の機運が生まれるものだ。
国内が戦争に疲弊し、和平論が必ず生まれる。

蜀漢としては、
221年の建国後すぐに一年越しの対呉の夷陵の戦い、
225年の南中郡への遠征など、
遠征が続いている。

231年時点の建国10年間のうち、
223年、224年、226年のの3年しか戦争をしていない期間がない。

231年の第四次北伐は、
李厳の虚言により失敗に終わった。
諸葛孔明は、兵糧が送れないという李厳により、
撤退させられたが、李厳は妙な言い訳をしている。
諸葛孔明はそれを虚言と断じ、
官職を剥奪し、
庶民に落とした。

李厳は諸葛孔明とともに、
劉備の遺詔を受けた人物だ。
蜀漢における序列は諸葛孔明に次ぐ第二位である。

諸葛孔明のことは常々尊重し、
諸葛孔明が魏への北伐時には常に、
後方を統括していた。

庶民に落とされた後も李厳は引き戻してくれるのは、
諸葛孔明しかいないと言っている。

李厳はそうした立場、スタンスだ。
にもかかわらず、
ただいい加減だったため、という理由で職務を放棄するか。
帰還した諸葛孔明に対して「なぜ帰ってきたのか」というようなことを
言うのか。突然責任転嫁をするのか。
全く現実的ではない。
そもそも事実として長雨で兵站(ロジスティックス)が崩れ
糧食の輸送ができないのであればそう言えばいい。
もしそうだとしたら李厳のミスかもしれないが、
庶民に落とされるほどのミスではない。



私は李厳のこの虚言は、
連戦に次ぐ連戦に不安を覚えた皇帝か群臣か、輿論か、
何かの影響を受けて、行なったものと考える。

劉備の遺詔と劉禅の承認により全権掌握している
諸葛孔明、法家主義に立って国内を厳しく律する。

しかしついこの前まで後漢という儒家思想の時代であった人達が
諸葛孔明の振り切り方についていけるだろうか。
そもそも蜀漢は、その名の通り漢を継ぐものなのである。
ここまで法家思想に振り切れるのだろうか
また、
今魏を攻めなければ、蜀漢は地方政権に終わると
確信できるほどの戦略眼があるだろうか。

むしろこれだけ連戦し、蜀漢が期待するほどの成果が得られない中、
その将帥の諸葛孔明に対する批判が起こらない方が奇跡である。

儒家思想は分権である。
それぞれの士大夫、貴族と言ってもいい高官が、
それぞれ考え、振る舞う。
そもそも儒家思想に立つ人は、法家思想を超えた概念で
行動する。本来、法は無視してもいいともいえる。
そういう風潮の時代、後漢が少し前まであったのだ。

李厳自身、もしくは他の誰かが反対しても全くおかしくはない。
反対、もしくは消極論が出て当然である。何ら不思議はない。

だからこそ、
諸葛孔明は李厳を庶民に落としたのだ。
虚言で朝廷から追放、庶民に落とすなど、
聞いたことがない。
降格が適当だ。
しかし李厳の虚言は、北伐反対、もしくは慎重論が実態なのだ。
諸葛孔明の全権掌握への反抗につながるものである。

明らかに無理をして蜀漢は魏と互角に戦っているのに、
この反対論を潰さないと蜀漢自体がまとまらなくなる、

それゆえの李厳の処罰であった。

遺詔を受けた臣というのは本人はもちろんのこと、
子孫まで罪一等を減じて処罰するというものだ。
それほど遺詔を受けたという事実は重い。

ほとぼりが冷めたら復位するということもなかった。
234年諸葛孔明が陣没するまでに許されることがなく、
そして李厳もその後程なく死去した。

私は、諸葛孔明はこの李厳の虚言で
蜀漢国内の声にならない反対論を感じたと考える。

だからこその第五次北伐だ。
3年間を空け、民を休ませ、国力を充実し、
五丈原に屯田し、漢中に戻らない決意を持って
諸葛孔明は軍をまとめたのである。