歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬懿の専守防衛は魏明帝曹叡の勅命~諸葛孔明第五次北伐~

魏にとっては、

二方面から攻撃を受けることになる。

呉が合肥と襄陽を攻撃、蜀が五丈原から長安を伺う形。

東西の端に攻撃を受ける形となる。

軍勢を三方面に分けなくてはならない。

 

これに対して、魏明帝曹叡は下記を親裁した。

魏明帝曹叡が全て決めたことを強調したい。

魏明帝曹叡は親政を望み、実行している。

下記の二つの大枠の方針を親裁。

 

①蜀の諸葛孔明に対しては、司馬懿が対応。

曹叡は司馬懿に対して、勅命で、

「専守防衛。決して戦うな」と命令している。

司馬懿はこれを忠実に半年間守り切った。

一般的には、司馬懿が諸葛孔明と戦おうとしなかった、

卑怯者だ、諸葛孔明は司馬懿と戦えれば勝てたのに、

という印象があるが、戦うなと命じたのは、曹叡である。

 

②魏明帝曹叡自身は、対呉戦線に親征する。

一方で、今回は呉に対して親征することに。

第一次北伐のときは、呉の出兵はなかったが、

曹叡は長安まで親征している。

 

満寵が都督揚州諸軍事である。

228年に曹休が石亭の戦いの後死去し、

その後任として赴任した。

 

※満寵は歴史を俯瞰してみると、大きな業績を残している。

230年もしくは233年どちらかに、

合肥の城を、移転させた。

合肥旧城→合肥新城への移転。

合肥旧城は揚州の鎮守府寿春から遠く、

また江湖から近いため、呉が水軍を活用して、

高い動員力と機動性が実現、容易に攻撃を受けやすい場所にあった。

それを北西に移した。これ以後、岸から遠く、寿春から

近い合肥新城は堅守を誇る城となった。

 

司馬懿は、対蜀戦線を担当。

漢中から褒斜道を通って秦嶺山脈をまっすぐ越えてきた諸葛孔明。

関中(渭水盆地)に出てすぐの五丈原に布陣。

司馬懿はそこから北に渭水を挟んだ向こう岸に布陣する。

五丈原を仰ぎ見る形となる。

 

このときの逸話として、

司馬懿は諸葛孔明を攻撃したかったという話がよくある。

魏明帝曹叡に上奏するも退けられ、絶対にしないように

という勅命を伝える。

明帝は、勅使として辛毗を派遣し、勅命に従うよう厳命している。

それでも司馬懿は、諸葛孔明の挑発もあって、攻撃をしたかったのに、

果たせなかったとしている。

 

しかし、これは事実ではないと私は考える。

理由は二点ある。

①戦略面:

そもそもここで司馬懿が蜀と戦ったら、三方向二勢力で

敵と戦うことになる。蜀と膠着状態にすれば、

二方向一勢力との戦いで済む。

それがわからない司馬懿ではない。

この攻撃をしたいという司馬懿の「ふり」は、

諸将兵卒をなだめるため士気を維持するための、

「芝居」だと考える。6ヵ月動かない敵を見張り続けるのは

堪える。一般的に考えて、

6か月間敵と向き合って戦わないというのは大変難しい。

指揮官が臆病だと兵卒に謗られるし、

長滞陣に対する士気の低下は必ず起こる。

この対策ではなかったか。

勅使辛毗が来たのも、

司馬懿の要請かもしれない。

②思考・性格面:

そもそも司馬懿は、魏皇帝に対して忠実だ。

晩年のクーデターがあるため、佞臣のようなイメージがある。

が、曹丕に認められ、側近として功績も挙げてきた。

建国の元勲の一人としての自負があってもおかしくはない。

建国の元勲として忠臣でありたいという思いは当然だ。

また、

父の厳しい訓育を受け、司馬八達の一人である。

儒家的思想を徹底的に受け、上下の別をはっきりとする

文化を持っている。

父司馬防の指示がなければ、座ることも許されなかった。

 

こうした教育を受けて大成した人間が司馬懿だ。

そういった人間は、

この状況下で勅命に反する行動を取らない。

また戦略的に見て敵を利するような行為をするほど、

司馬懿は愚かではない。

つぶさに大局的に戦況を聞いていたはずでもある。

 

 

諸葛孔明と2度目の直接対陣。

まだ2度目でこれが最後である。

二回しかないのである。

 

前回は急遽曹真の代役だった。曹真の死去が理由。

 

曹真総大将の第一次北伐の孟達討滅作戦、

曹真総大将の対蜀攻略戦(結局道半ばの未遂)

を入れれば4度だが、後者の二回は総大将ではない。

直接とはいえない。

 

この第五次北伐が、

二度目にして最後の司馬懿対諸葛孔明の戦いである。