曹魏は、漢王朝が正統であり、皇帝は漢、すなわち劉氏でしか
ありえないという思想に挑戦した。
王莽に続いての挑戦である。
輔弼か禅譲か、悩んだ結果、曹丕は禅譲を選んだ。
多分曹操も同様に意思表明していたのだろう。
※曹魏・・・
この曹操が創業し、曹丕が後漢献帝から禅譲を受けて、
皇帝に即位して打ち立てた王朝を曹魏とか三国魏とか言う。
「魏」という名前は今後歴史的に度々出てくるので、
その区別のためだ。
魏は法家思想に立って、皇帝への権力集中を
目指した。下記に7点の事例を挙げたい。
皇帝専制である。
わかりやすく事象を捉えるのであれば、
商鞅以後の秦に近い国家体制を取ったということだ。
①九品中正法(九品官人法)・・・
九品中正法(九品官人法)はその表れだ。
皇帝が任命した中正官が官吏登用権を持つ。
後漢は郷挙里選という制度で、
地方の有力者の推薦によるものだった。
九品中正法は、西晋期に歪められ、
貴族制を助長したが、そもそもは官吏登用を皇帝直轄にするものだった。
後漢は王莽が儒教を国教にしたのを
引き続き受けて、儒教視点で採用をしている。
また儒教らしく地方の有力者の清廉さの前提に立っている。
魏は皇帝直轄にして能力主義の採用をした。
②魏律の採用・・・
陳羣が起草。230年代の魏明帝曹叡の時代に完成したとされる。
儒教的観点で、のちに貴族と言われる名族出身者を中心とした
官吏がそれぞれ判断するのではなく、
皇帝が決めた法に則って判断をする。
つまり文書などを媒介として皇帝が決済することになる。
尚、蜀漢は法制度の制定施行が早く、220年代前半と思われる。
後世、蜀科といわれる法制度。諸葛亮を中心に制定。
蜀漢の強さの源のひとつ。
③刑罰の厳格化・・・
魏においては法が厳格に施行された。
そのためのちに苛烈と言われるほど法が執行された。
刑罰も後漢では死刑か鞭打ちかぐらいの曖昧なものだったが、
魏では古の肉刑(鼻を削ぐ、足の腱を切って歩けなくするなど)を
復活させるかどうかの議論もあった。
法家の陳羣は賛成であったが、
儒家寄りの王朗を初めて反対派が多く断念したほどだ。
④軍屯・民屯といった大規模な屯田制・・・
戦乱により大規模な人口減となった三国時代。
新都市建設や防衛上の観点により流民などを中心とした民が、
居住地を決定された。
⑤宗族は官職に就かせない。
⑥皇太后の非常時の皇帝権代行を禁止
⑦宦官は一定以上の官職につくことを禁止
魏明帝曹叡は、
ちょうど諸葛亮の死後宮殿造営を増やす。
諸葛亮の死とのタイミングの関連性はわからない。
皇帝権の明示化を志向した蕭何の事例にならったと思われる。
福原哲郎氏著「西晋の武帝 司馬炎」から引用する。
「前漢のはじめ、蕭何が宮殿を造営、その華美なるを酵素が怒ったのに
対し、蕭何「天下いまだ定まらぬが故にこそ、
四海を家とすべき天子の宮室を壮麗にして、
天子の重威を知らしむべきである」と答えた」
奢侈の表れではなぜ宮殿を造営したのかに答えていない。
説明がきかない。
説明できないものは往々にしてこのように極論で説明される。
司馬懿は諸葛亮の死後も引き続き長安に駐留。
曹叡即位後の連年の戦争が途切れただけである。
大半は魏からの攻撃ではなく、蜀もしくは呉からの攻撃であった。
私は曹叡がこの三国時代を事実上勝ち切ったと思ったから、
宮殿造営を手掛けたと私は主張する。
理由は2つある。
①諸葛亮が死去し、蜀からの攻撃が収まった。
呉の孫権もやはり諸葛亮に呼応していたのだろう、
攻撃が止んだ。事実上曹叡は蜀と呉に勝ち切ったのである。
②宗廟を整備し、
(237年七廟の制定。王莽が定めた皇帝祭祀の礼制)
曹操を太祖、曹丕を高祖、そして自身を烈祖としている。
祖父・父と並ぶ「祖」としている。これは天下一統が成ると
事実上感じたためだ。
烈祖を贈られた歴史上の人物は、
前燕の慕容儁(皇帝を名乗ったが帝国の建国者。国は父が建てた)、
北魏の太祖道武帝(烈祖宣武帝が初めの廟号諡号。拓跋氏は代を建てたが一度滅び、その後北魏が復興した。諡号で「宣」が贈られるのは基本的に中興の君主である。)
チンギス・ハーンの父イェスゲイバートル
などである。
一番手の創業者は、高祖か太祖が贈られる。
(本来は太祖。しかし前漢劉邦が太祖高皇帝で、
一般的に「高祖」と呼ばれるのでややこしい。)
創業者が国を創り、その子孫が例えば
天下を統一したときに贈られるのが、
この烈祖という廟号だ。近い位置付けの廟号は、
世祖や成祖で、これはそれぞれ例えば後漢光武帝・明永楽帝が贈られている。
魏は、歴史的に俯瞰すると、
諸葛亮が陣没したことを契機として、
蜀と呉に対して相対的に優位に立った。