興勢の役は、魏帝国の歴史においても、
大きな意味があった。
対蜀戦線において、
魏から仕掛けた戦いとしては
初めての大敗なのである。
魏帝国の建国の221年から、
魏帝国が消滅する265年まで、唯一の大敗となる。
大きく権威を落としたのだ。
対呉戦線では、
都督揚州諸軍事で大司馬の曹休が
呉に仕掛けて敗れている。
228年石亭の戦いである。
曹休はその後すぐに死去している。
憤死であろう。
魏にとってはそれほどのことであった。
この石亭の戦いは、
呉の周魴の偽りの投降が原因だ。
孫権の詐謀である。
曹休に同情の余地もあるのにだ。
魏はそれほど厳しい実力主義であった。
そうした風土の魏が大負けした。
総大将は大将軍曹爽。
曹爽は名目になっていたとはいえ、
武官のトップ大将軍なのである。
その総大将曹爽が、興勢の役の後も、
そのまま大将軍の位に居座るのである。
本人も居心地の悪い思いをしたに違いない。
実態もひどいものであった。
今回の作戦はとても稚拙なものであった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
漢中から魏を攻撃するには以下の7つのルートがある。
①祁山経由
②故道・大散関・陳倉経由
③褒斜道・陳倉経由
④褒斜道・五丈原経由
⑤太白山(海抜3767メートル)をかすめての駱谷道経由
⑥子午道・長安へまっすぐ
⑦漢水沿い・魏興郡経由
ーーーーーーーーーーーーーー
⑤のルートと使った。長安から漢中に進む。
しかしこのルートのみであった。
230年の曹爽の父曹真の征蜀は、
3ルートから攻めた。
①曹真本隊は③の褒斜谷のルートから
漢中を突く。
②張郃が長安から⑥の子午道から進撃。
③司馬懿は荊州方面から⑦の漢水沿い遡るルートで漢中を攻撃。
の三つである。
大将軍曹爽とその一派、そして征西将軍で都督雍涼州諸軍事の
夏侯玄は彼らは完全に蜀を侮った。
蜀の最高権力者蔣琬が涪城に下がり、
漢中の駐在兵力が3万に減少したため、10万人(実際は6,7万人とも言われる)で
攻めかかれば、特に問題なく勝てると、曹爽たちは踏んだのであろう。
曹爽は父曹真の征蜀の故例すら確認しなかったのではないか。だとしたら親不孝者である。
諸葛亮がいないから油断したのか。
駱谷道の地勢もあまり確認しなかったのではないだろうか。
蜀の王平が守る、
興勢山(興勢坂とか興勢囲とかいう)を突破できずに
魏軍は滞陣、
そうこうしているうちに蜀から費禕が援軍として到着。
引き際を見失う。
結局、
打つ手がなく、
詰んでしまった魏軍は司馬昭の献言により撤退を決定。
蜀勢に追撃され、命からがら撤退をした。
三国志で活躍する武将たちの巧みな戦略は
ここで浮かび上がる。
曹操や孫策、諸葛亮、郭嘉、賈詡、荀攸、周瑜、そして司馬懿。
奇襲をしたり、手堅い攻撃、手堅い守りだったり。
こういった総大将の指揮・戦略・戦術の巧みさは当たり前ではない。
この遠征の魏軍には郭淮も司馬昭もいるのだ。
大規模な戦役は総大将次第である。