歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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「蜀」の丞相ではない、「漢」の丞相諸葛亮である。

蜀は魏の言葉だ。

蜀とか蜀漢とかは正当な名前ではない。

彼らが名乗った正式な名前は、

「漢」である。

 

蜀を漢に書き換えて、

いわゆる蜀漢を見直すと印象が大きく変わる。

漢に直して歴史上の出来事を文章にしてみる。

 

「漢の丞相諸葛亮は、漢皇帝劉禅に出師表を上疏、

魏賊に対する征伐を表明する」

「漢の天子劉備は

孫権の背反を罰する為に荊州に遠征した。」

「漢の丞相諸葛亮は魏を討伐する。」

「夷陵の戦いの後、漢は呉の孫権と修好し、同盟を結んだ。」

「漢は魏から攻撃を受けた。総大将は曹真。

曹真は褒斜道、張郃は子午道、司馬懿は漢水沿いを遡って、

それぞれ三路から進撃。

漢の丞相諸葛亮は漢中の守りを固め

防御体制を取る。折しも長雨があり、

総大将曹真の進軍を阻む。

漢中に達しないまま、魏主曹叡が勅命で撤退を命令、

曹真たちは成果を得られないまま撤退する。」


全くイメージが変わる。

漢こそ、蜀こそ、正統。正義の味方のような印象を受ける。

魏は悪役にしか見えなくなる。

蜀を漢に言い換えただけでだ。(もちろんこれが正式名称なのだが。)


漢の皇帝劉協の曹丕に対する禅譲を認めない。

漢をここに復興し皇帝になる。

漢の皇帝が禅譲をするわけがない。

曹丕は皇帝劉協を殺した。弑したのだ。

だから、劉備は漢の皇帝劉協に対して、諡号を贈る。

愍帝(孝閔皇帝)。

そのうえで、すでに漢中王であった劉備は、

群臣に推戴され皇位に就く。

漢の景帝の子孫である劉備はその資格がある。

光武帝劉秀も漢の景帝の子孫であった。同じである。

 

 

魏は王莽にならって、禅譲を敢行した。

漢(蜀)は光武帝にならった。

光武帝は群臣から皇帝に推戴された。

禅譲を受けず、放伐もしていない。

劉氏のみ、漢の宗族のみが皇帝になれる。皇帝になる資格がある。

禅譲や放伐といった革命思想に則らない。

 

王莽は失敗した。

しかし儒家の英雄であった。

このゆがみ。

漢書の班固は王莽をたたえている

 

歴史の使い方は様々ある。

一つの使い方は政治的イデオロギーの構築。

 

魏は滅ぼしたはずの漢の残党と戦っていることになる。

 

光武帝は宣帝をベンチマーク

儒家と法家両方をうまく使う。

 

法家主義法治主義は始皇帝で失敗

儒家主義徳治主義は王莽で失敗

漢はその中間。意外に現実主義。

 

漢は中間をうまくとるからこそ、王朝を長らく維持してきた。

漢書および十八史略から、前漢宣帝の言葉を下記に引用する。

「宣帝作色曰、

漢家自有制度。本以覇王道雜之。

奈何純任教、用周政乎。

且俗儒不達時宜、好是古非今、使人眩於名實不知所守。

何足委任。

乃歎曰、亂我家者太子也。」

 

儒家を勧めてきた息子で太子である、のちの元帝に対しての

言葉である。

 

下記に意訳する。

宣帝は顔色を変えて、

「我が漢家には、漢家のやり方がある。

それは、覇道と王道を交えたものだ。

どうして儒教を使う、古代の周のやり方を用いる必要があるのか。

かつ、俗儒は時勢に合わず、古きを好んで現代を否定する。

人を惑わす。名目と実態に関して、

何を守るべきなのかを理解していない。

どこが政治を任せるのに適しているのか。」

宣帝は嘆いて、

「我が漢家を乱すものは太子である」

 

この後元帝は王莽の栄達を許してしまう。

王莽の死後もその亡霊は生きる。

 

それぞれの権化が消えても

その支持者は連綿と生き残る。