歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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高祖劉邦が天下を取ったことが儒家にとっての大誤算

儒家の誤算。

始皇帝も劉邦も、曹操も、天下を取るはずではなかった。大きな誤算。

 

劉邦が天下を取った。

これをどう捉えるか。

いずれにしても大きく社会は変動した。

秦までは、王と貴族の時代。

それが劉邦という無頼の徒に天下を許してしまったという衝撃。

 

これを認めるか、認めないか。

 

王莽は儒家の権化。求めず破壊しようとした。

光武帝は実は儒家ではない。儒家を認めつつ、

劉氏=皇帝論。

 

曹操は第二の劉邦。下克上。革命思想。

なぜなら、曹操は系図上宦官の息子。

党錮の禁で対立した濁の宦官。

宦官史上、曹操の祖父曹騰は宦官として最高位に登った。

最も子孫を繁栄させた宦官である。

孟子・荀子・韓非子・秦始皇帝に連なる。

 

司馬氏は伝統的な名族。

儒家寄りである。

 

西晋の天下統一は儒家としての天下統一。悲願である。

だから280年から途端に法家的発想がなくなる。

儒家になる。

 

そして、漢400年の歴史で、儒家思想の欠点が噴出。

太后、外戚、宗族、名族=貴族 、すべてが

それぞれ勝手振る舞う。

 

結局、新たな実力主義者異民族が中原を荒らし、

西晋は滅びる。

 

しかし、それでも儒家帝国はしぶとく生き延びる。

江南は建康で粘る。

貴族社会の繁栄。貴族文化と貨幣経済が開花。

 

文高武低

これは東晋 宋 斉と大きな対立軸。

どうしても低く扱われる武に

社会・階層の底辺にいる実力者が流れ、

頭角を表す。

しかし、儒家貴族の権化梁の武帝が巻き返し、

貴族社会の黄金期を迎える。

 

そして同時に貴族社会最後の時である。

 

儒家全盛期であり、そして最後の時である。

周公旦の時代を理想と定めた儒家思想の終着点がこの

梁の武帝の時代なのである。

 

奢侈は極めに極め、貧富の差は広がる。

高い経済力を誇るも社会は大きく上下に分断。

 

終末をもたらしたのは、侯景。

東魏の降将。東魏を設立した実力者高歓(北斉の事実上の創業者)

に長年従ってきた将軍。

当時「勲貴」と呼ばれる成り上がりの武官の最高位であった。

河南大将軍兼司徒で黄河以南の経営を任されていた侯景は、

高歓の嫡男高澄の排撃であった。

 

将来の高歓・高澄ら高氏への禅譲、

この茶番と化した、儒家の美談的伝統儀式を

高氏が挙行するために、力のある侯景が邪魔だった。

 

同じく成り上がりの高歓は、成り上がりの侯景を排除。

 

梁に降伏(帰朝と言う。本来のところに服するという発想で儒家的)。

 

しかし程なく受け入れられないと、侯景は乱を起こす。(侯景の乱)

 

梁という貴族社会の黄金時代の中で、

排除された底辺の者たちが侯景に呼応、

梁は壊滅的になる。

 

侯景の乱の最中、

西魏の実力者宇文泰(北周の事実上の創業者)に、

漢中と蜀を奪われる。

また当時梁の皇族および貴族が難を逃れて集まっていた、

荊州の江陵も奪われる、

多数の貴族が北へ拉致された。

 

建康の梁は、当時は辺境の広州出身陳覇先が権力を握り、

程なくして禅譲。

 

ここに、

儒家政治は完全な終焉を迎えた。