歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬懿はどうすればよかったか1~文化・思想~

司馬懿は儒家思想で育ち、

曹魏の法家主義の確立に貢献した。

そしてその厳しい実力主義の中で、勝ち残った。

儒家と法家の両方を修養し、

文武に力を発揮したのは、

この時代、

司馬懿の他には曹操や諸葛亮ぐらいしかいない。

頭一つ出たことでやむにやまれない立場に陥った。

(そもそも儒家は文化と相性が良く、

法家は軍事と相性が良い。)

 

 

皇帝は人臣を守ることはしない。

皇帝は全てを私有する。

人臣の幸せなど知ったことではない。

自分勝手に扱うだけだ。扱って良い。

人臣は官吏として採用しても、

給料を払うことはしない。

岡田英弘氏の説によると、

清の雍正帝まで、給与という存在はなかったのだ。

官吏はその執務室と私的な生活を行う施設は

皇帝から貸与される。

しかし、

日々の暮らしを賄うためには、

税の上前を奪うか、

裁判での仲裁料を稼ぐか、しかない。

食い扶持、毎日のご飯はこうして稼ぐしかないのだ。

 

皇帝は人臣を守らない。

特に秦や魏のような、厳しい法家主義の皇帝は

より恩徳を施さない。徹底的な実力主義。

 

成果を挙げられなければ終わる。

それでは、人臣はどうやって身を守るのか。

 

一族で互助関係を結ぶのだ。

 

みんなで財を持ちあって、家財を作る。

家督を行う当主が一族の面倒を見る。

誰かが没落すれば、一族が助ける。

誰かが栄達すれば、一族も持ち上げる。

それが美徳とされた。

儒家の精神にも則っている。

まさに「修身斉家治国平天下」である。

社会福祉は一族という単位で行われるのである。

 

中華皇帝の世界は、

現代の国家の概念はないのだ。

皇帝に利益がなければ、自身が私有している

人臣を守る必要はない。ただ自分に奉仕するのみだ。

 

魏帝国(とはいえ現代の概念だと帝国と書くほかないのでご容赦願いたい)

の後期、もっとも繁栄していた河内司馬氏。

豪族、名族、貴族の一つである。

日本でいえば藤原氏のようなものだ。

 

もともと強烈な儒家思想の家柄である司馬氏。

司馬懿の父司馬防は、自身が指示するまで司馬懿など息子たちを

座らせることもしなかった。

成人した後もだ。

部屋に入ることも、発言をすることも許されなかった。

非常に厳格な家だった。

その成果もあって、

司馬懿をはじめその兄弟は、

司馬八達と言われた。

 

西晋265年初封二十七王

出典:西晋の武帝司馬炎 福原哲郎 白帝社_3

 

歴史上の実績は別にして、

司馬懿自身、その子司馬師・司馬昭、

司馬懿の弟司馬孚の四人は、確実に当代随一の才を持っていた。

司馬懿の死後、14年後の265年の西晋成立時には、

二十七人も王に封じる一族がいるのである。

彼ら四人を中心にこれだけの一族連枝がいるのである。

 

 

力がある、能力があるということは、

他の力のある者たちと競うことになる。

競い合いは、政治の世界では、

軋轢、そして対立へと発展する。

 

当代随一の名族河内司馬氏の当主司馬懿はどうするべきか。

244年興勢の役をきっかけに宗族の曹爽と対立状態に陥った。

司馬懿は65歳。当時でいえば、老い先短い年齢だ。

 

皇帝は元々人臣を守ってくれる存在ではない。

ましてや曹魏は厳格な法家主義で、

恩徳の概念が低い。

河内の大族司馬氏は優秀で野心のあるものも多々いる。

司馬懿自身の死後、必ず対立する。

やるかやられるかの事態に必ず発展する。