歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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魏の法家政治は功臣司馬懿すら追い詰める。

厳しく冷酷な実力主義を乗り切ってきた名族出身の司馬懿。
それを、深く考えずに権力欲を表に出した曹爽一派が
司馬懿を実は追い詰め、曹爽一派を滅ぼす。 

実力主義、皇帝専制、出身一族しか頼れない、
この三つが司馬懿を追い詰めた。

曹爽の登場で、実力主義が崩壊、
皇帝専制は、曹叡の崩御、幼帝の即位によりこれも崩壊。
よって司馬一族は、国家に支持される基盤がなくなったのである。

 
244年興勢の役をきっかけに対立状態に陥った、
曹爽と司馬懿。
 
征蜀を主張した曹爽に、司馬懿は反対をした。
曹爽は強行したが、失敗した。
 
その後都度都度対立するようになる。
曹爽の主張に司馬懿は反対する。しかし曹爽はそれを聞かず、
実行するが失敗するという話が繰り返し起きる。
 
247年5月に司馬懿は正妻張春華(司馬師・司馬昭・司馬幹の母)の死を機に、
病気と称して自邸に引き籠る。
時に司馬懿、66歳。
 
曹爽は、事実上権力を掌握する。
 
とはいえ、曹爽一派は司馬懿に対して警戒を緩めなかったようだが、
ここで有名なエピソードが起きる。
 
248年の冬、
曹爽一派の「四聡八達」のひとり・李勝が荊州刺史に就任、
 
※本貫地のポストには就くことができない・・・
李勝の本貫は、荊州の南陽。これは大変異例のことであった。
後漢以来本貫地の官僚ポストに任じられるのは禁止されていた。
桓帝の時に厳格化されている(三互法)。
血族・姻族がその任官したポストの赴任地にいることも禁止。
こうしたことも曹叡から嫌われた理由であろう。)
※四聡八達とは・・・夏侯玄・李勝・鄧颺・諸葛誕など12人のこと。
全員の実名はわからないようだ。お互いに「四聡八達だ」と言い合って、
相互の名声を挙げた。
曹叡はそれを評して、「名声など画餅だ」(絵に描いた餅)として、彼らを更迭した。
 
 
 
任地へ赴任するのでその挨拶と称して司馬懿の様子を伺いに行った。
侍女に両脇を抱えられないと歩けない、
衣服はずり落ちまともに着ることができない、
粥を食べようにもうまく食べられず、こぼしてしまう、
「荊州」を「并州」と何度も間違える、
 
 
こうして司馬懿は、曹爽一派の李勝を油断させた。
李勝は司馬懿はもう長くはないと曹爽に報告。
油断した。
 
年明け249年の1月、
魏皇帝曹芳とともに、曹爽一派は、
先帝明帝曹叡の陵墓、洛陽城を出て高平陵へ参拝に行く。
 
その隙をついて、司馬一族は挙兵。
郭太后(魏明帝曹叡)を押さえて、皇帝不在の際皇帝権の代行をできるというのを利用。
郭太后の詔勅を元に洛陽城を押さえる。
洛陽城から高平陵に行くには洛水を渡河する。
そこには浮橋があり、それを使って渡る。

その浮橋を境目に、両軍対峙する。
曹爽一派は皇帝を擁しているので、
もちろん近衛兵(虎賁)がいる。

郭頒の『世語』にいわく、
司馬懿の長年の友人蒋済は、殺すまではしないといって降伏させた。
しかし、降伏した曹爽を数日曹爽の自邸に監禁した後、
族滅した。蒋済は、これを気に病み、同年249年中に死去した。

果たして曹爽一族を族滅する必要まであったのか。
こういった議論はいつの時代もされて来たのだろう。
司馬懿の長年の友人である蒋済は、
まさか司馬懿がそこまでするとは思っていなかったようである。

しかし、族滅しないということこそ、徳治主義。すなわち、儒家思想の発想だ。

この実力主義の時代、
国家は自分たちを守ってくれず、
一族視点で見れば、決断をするほかない。
それは、実力主義という生存競争の行きついた結果だ。