司馬懿は249年の高平陵の変(正始政変)の結果、
魏の実権を一人で握った。
司馬懿が実権を奪取後行ったことで、
注目に値するのは、
九品官人法の改正である。
この目的は以下3点である。
①政権を握る司馬懿が、人事権を掌握した。
②浮華の士(しかし実は最先端である)に連なる人間の採用を排除、
曹爽一派の支持基盤を破壊した。
③儒家思想への回帰。玄学の排除。
今まで朝廷から派遣されていた中正官が、
官吏の採用を司っていたのを、
その上に「州大中正」という官職を置いた。
より中正官から州大中正に稟議を挙げて、
裁可するという仕組みにする。
郡を管轄する中正官に対して、
州を管轄する中正官、すなわち州大中正である。
元々曹爽存命中から、
この論議はあったようだが、
曹爽の弟曹羲の反対にあうなど(太平御覧)
実行できなかったようだ。
政権を握った司馬懿はこれを実行に移す。
中正官を中央=司馬懿がコントロールできるようになる。
そもそも九品官人法は、官吏採用を事実上地方豪族の推薦に委ねていた
後漢のやり方(郷挙里選)から、
中央政権の管理が及ぶようにしたものだ。
それを司馬懿はより自身が掌握しやすくし、
実際には各地の名族に官吏採用で配慮した。
また、浮華の士と言われた者たちの採用の根拠となった、
文学の項目は評価項目から外された。これは後漢以来続いていた。
曹爽一派に近い人物を採用から排除したのである。
浮華の士=玄学清談=「文学」(文章作成)
である。
ここで言う玄学清談とは、哲学と人物評論のことである。
竹林七賢はこれをしていた。当時の最先端である。
玄学と言うと、どうしても老荘思想=無為自然のように捉えてしまうが、
ここで言う玄学清談は、真理などを探求する抽象論、
つまり哲学のことだ。
また
ここでいう文学は建安七子や三曹(曹操・曹丕・曹植)に続くもののことである。
文章創造である。
儒家は、儒教の経典に則った文章を作成する。
独創はしない。
故に岡田英弘氏が言うように、漢語とは
古の経典と同じ字列で表現するのみで、
特に文法があるわけではない。この考え自体が非常に保守的だが、
これが儒家なのだ。それを真理など探ろうとする、
玄学は反発を受けるのもやむを得なくはある。
結局、司馬懿は儒家寄りにシフトする。
大局的に、歴史的に見ると、
儒家が巻き返したのである。
法家思想、玄学を押しのけた。
歴史を発展段階として捉えると、
外敵の脅威が落ち着いたことで、
進化を拒否し、旧弊に戻ったのである。
ここに法家思想シフトの時代は終わる。
この後もずっとこの対立は続く。
思想とは常に相対的な対立を生むものだと思い知らされる。
下記論文は、タイトルは異なるが、九品官人法を巡る諸派閥の考え方、
利用の仕方が描かれている。
●参考論文:好並隆司氏
「魏・晋代、司馬・曹両氏の浮華・老荘思想をめぐる政争」
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/sg03903.pdf?file_id=5269